身近にある絆
(第十一話)




ぶ〜〜〜〜、と扇風機が首を振りながら風を送っている。
人工的な風が顔に当たった。

……
「……」
『今日、日中の予想最高気温は…』
テレビ向こう側で、ニュースキャスターがそんなことを言っている。
いつもなら、ほう、そんなに上がるのか、と感心しながら聞ける天気予報も、
今日に限っては全く頭に入ってこない。
声が、念仏に聞こえる。
「…」
『続いて、次のニュースです』


先ほどから、朝食を摂る気にも全くなれず、ぼけー、と放心状態でただ一点を見ている。
はたから見れば、頭がおかしくなったように見えるかもしれない。
数学の問題集は記入する者をなくし、まっさらの状態を保ち続けている。
「…」
けれど、頭の中だけはフル稼働していた。
昨日の出来事がありありと思い出される。
なんで、玲菜は俺に告白してきたんだろう、俺の何処がよかったのだろう。
昨日の玲菜の儚げな表情がふっ、と浮かんでは消える。
玲菜は俺に、好きだ、と言った。
でも、自分は返事を返すことができなかった。
突然の事だったし、玲菜がそんなこと言うなんて想像もしていなかったから、
すぐに返事を返せ、とか言われたとしても、あの状況では無理だった。
「…」
けれど、明日は学校がある。
ということは、玲菜と顔をあわせることになるだろう。
玲菜と顔を合わせたとき、俺はどう反応すればいいのだろうか。
黙って、無視をすることもできないし、軽く話しかけるわけにもいかない。
かといって、いつも通り、というのも無理だろう。
でも、その問題はたいしたものじゃない。
本当の問題は玲菜の問にどう答えるか。
玲菜のことが好きなのは間違いない、と思う。
ただ、それがどのレベルなのか分からない。
友人として好きなのかもしれないし、バカ騒ぎするのが好きなのかもしれない。
もしかしたら、それ以上の感情を抱いているのかもしれない。
「…」
もしかしたら?
「…」
ソファーから立ち上がって、全開になった窓のサッシに寄りかかり、外を見る。
ずっと考えていて、気が付かなかったけれど、かなり天気がいい。
じーじーじー
みーみーーみー
と、蝉の鳴き声が、道路をはさんだ向かい側の公園から、元気よく聞こえてくる。
日に日に本格的な夏が近づいてきている。
「…」

ふと美咲の顔が目に浮かんできた。
可笑しなものを見るような目で微笑みながら、俺を見ている。
俺のどこが面白いんだ?美咲。
そう言ってやると、美咲はくすっ、と笑ってから、全部、と言った。
失礼なやつめ。
「……」
答えはいずれ出すようだ。
選択肢は2つしかない。
無駄に答えまでの時間を延ばしても、仲を悪くするだけ。
はい、か、いいえ、か。
「はい、か、いいえ…か」
自分に言い聞かせるように反芻すると、幻の美咲が声をあげた。
「『はい、か、いいえ』?」
幻が声をあげるものか?
手を伸ばしてみると、頭に手がのった。
どうやら本物だったらしい。
今日は顔を合わせたくなかったんだけどな。
「どうしたの?そんな顔して」
手をどけると、美咲は曇った顔で俺の顔を覗き込んできた。
「顔色良くないよ。風邪でもひいたの?」
「それはない」
バカだし。
「う〜ん……」
すると、美咲は少し考え込む仕草をしてから、思いついたようにポン、と手を叩いた。
「じゃあ、テスト勉強しようか。
火曜日からテストだからね。英君、数学苦手でしょ、私が教えてあげる」
彼女は、にこにこと笑みを浮かべた。
今日は勉強する気がしない、と言おうとしたけれど、
美咲のふよふよとした笑みを見ていると、そんな気はどこかに飛んでいってしまった。


「え〜っとね…ここはね…」
「因数分解するのか?」
「そうそう。因数分解して…」
美咲はシャープペンをかりかり、と動かした。
訳のわからないような問題が、面白いように分解され、数字と文字が踊りだす。
「…こうやって…解けば、簡単でしょ。ほら、やってみて」
俺は先ほどから、数学を教えてもらっている。
自室の小さい机だけに、彼女との距離は本当にわずか。
肩が接触しそうなほどだ。
美咲の横顔を何気なく眺めてみる。
こいつはいったい何を考えてるんだろうか。
わざわざ自分の勉強時間を割いてまで、頭が俺に数学を教えてくれている。
そんなこと頼んだ記憶は全くないし、義理もないはず。
それなのになぜ?
「…ちょっと…聞いてるの?」
「あ?ん?…あ、ああ、聞いてる聞いてる」
聞いていない、と言う訳にもいかないので、そう言うと、ほんとかなぁ、という疑いを持った顔をした。
「ちゃんと聞いてよね。赤点取って夏休みなくなっても知らないよ」
「分かったよ」


何だかんだ考えているうちに翌日になった。
なんか夢の中まで考え事をしていたような気がする。
若干、気がだるい。
カーテンを開け、窓を開けると、全開になった窓から、初夏の空気が流れ込んできた。
新緑の匂いがする。
小高い丘の上に学生寮が見えた。
玲菜もあそこに住んでいる。
「どうすればいいんだよ」
制服を着込みながら、自分自身に問い掛けるようにつぶやいた。
答えは自分で見つけるようだし、つぶやくだけでは何の解決にもならないことぐらい分かっている。
ただ、言わずにはいられない。
リビングで焼いた食パンを数枚口に運び、身だしなみを整えてから、玄関を出た。
いつもより若干早い。
道路に出て1秒後、待ち伏せてたように、聞きなれた声が聞こえてきた。
「あれぇ?」
振り向くと、不思議そうな顔をした美咲がいた。
かばんを片手に走りよってくる。
「英君、こんなに早くもう行くの?」
「なんとなく、気分で」
「そうなんだ……じゃあ、いっしょに行こうか」
美咲は一瞬納得のいかないような顔をしたけれど、すぐに表情を変えて、いつもの笑みを浮かべた。
「ああ」
結局、美咲の申し出には断れない俺。
いつものように美咲と一緒に学校に向かう。
そういえば、美咲も夏服になっている。
白を基調にしていて、半袖。
さわやかな感じがする。
なんか、全く気がつかなかった。
衣替えって、六月一日だろ?
もう既に一ヶ月たってるし、そろそろ俺も頭いかれてきたか。
そんなことを考えていると、美咲はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「あ〜あ、でも、残念。せっかく英君を起こしてあげようと思ったのに」
「…それだけは止めてくれ」
寝顔を見られるのは勘弁である。
昔、修学旅行中に写真を撮られた時があるけれど、かなり、間抜けだった。
俺が顔をしかめると、美咲はこちらを向いて、ふふふ、と笑った。
本当に笑顔が似合うやつだ。
「え〜、可愛いのに」
「……」
この年になって、可愛いとか言われても全く、断じて嬉しくない。
「今日もいい天気だね」
美咲はそう言うと空を見上げた。
俺もつられるように空を見上げる。
青色に染まった空の所々に雲がぷかー、と浮かんでいる。
太陽がまぶしい。
道路脇にある公園からは、元気のいいすずめの鳴き声が聞こえてくる。
桜一色だった公園も、今では緑を輝かせている。
「もうちょっとで夏休みかぁ…英君は何か予定あるの?」
「あ〜、……無いと言えば無い」
その前に、夏休みがあるかどうかが不明だ。
補習で半分がつぶされる可能性が、大だし。
「そういう美咲は、何かあるのか?」
そう聞くと、美咲は視線を宙に泳がせた。
「え?私?う〜ん…無いかなぁ」
「なんだ、俺と同じじゃないか」
「そうだね」
美咲はくすり、と笑った。


美咲と話していると、どうしても、玲菜の言葉が頭をよぎる。
『まるで、おしどり夫婦』
…本当に、そうなのだろうか。
横を歩いている美咲は、笑みを浮かべながら、飽きもせずに話し掛けてきている。
彼女との距離は50cmあるかないか。
明らかに近い。
手を伸ばせば、肩さえ抱き寄せてしまえそうだ。
これじゃあ、恋人同士だと思われても、否定できない。
美咲は何を思って、ここまで懐いているのか。
それを煩わしくも思わず、付き合ってしまう俺が持っている感情はいったい何だろう。
単なる友情かもしれないし、恋かもしれない。
ただ、去年、美咲に抱いていた感情と、今、美咲に抱いている感情では大きな違いがあるのは間違いない。
それに、最近になるまで全く気にもとめていなかったけれど、
美咲はとても魅力的な女性、という事に気が付いた。
じゃあ、俺が玲菜に抱いている感情はどうだろう?
美咲に抱いているそれと似ているようで似ていない気がする。
どちらが、友情なのか恋なのか、全く分からない。


玲菜に対して、どのような態度をとればいいのだろうか、
それをただ、ひたすら演算しながら、教室に入った。
「おはよ〜」
いつもより若干時間が早いので、人はまばらだ。
「また、夫婦で登校か?相変わらず妬けるね〜」
クラスメイトの一人が美咲と俺の姿を見てそう言った。
「変な事言うな」
「あ〜畜生!俺も彼女ほしいな〜!」
そう言うと彼は机をバンバン、と叩いた。
「あほ」
表面上ではさらりと爆弾を回避したものの、
先ほどまでそのことについて考えていただけあって、内心かなりどきりとした。
やはり、皆も俺たちのことは"夫婦"だと思っているらしい。
ちらっと、美咲を見る。
相変わらず美咲は、何が面白いのか、笑みを浮かべていた。


「おはよう、英、美咲」
自分の席に座ると、玲菜がそう声をかけてきた。
普段どおりの表情に見える。
何も変わっていない。
ただ、若干、声と目がやわらかくなっているような気がする。
「今日も二人で登校?」
玲菜は美咲の前の席に座り、美咲と俺を交互に見た。
「昔からこうだったしね。日課みたいなものかなぁ」
「そうなんだ」
玲菜は少し煮えきれないような感じでうなずくと、顔色を反転させ、険しい表情になった。
「前から聞きたかったんだけど、二人って、"本当"に付き合ってないの?」
「え?」
「は?」
俺と美咲の声が見事にシンクロする。
なんで、そんなことをわざわざ聞いたりするんだ?
美咲なんか、え?という驚きの表情のまま固まっている。
「朝から晩まで一緒なんでしょ?付き合ってるようなもんじゃないの?」
玲菜の声にとげを感じる。
しーん、と俺たちの周りが静まり返ったような"気"がした。
それにしても、『朝から晩まで一緒』ってどういうことよ。
でも、朝から晩まで一緒だったことは無いとはいえない…
「え?……」
美咲はこちらをちらり、と見た。
「ハッキリしないわね、答えが無いんだったら、私が英を貰うけど、いい?」
「え!?」
美咲は素っ頓狂な声を上げて、玲菜の顔を見た。
真意を確かめようとしているように見える。
けれど、玲菜の顔は本気で、笑みのひとかけらさえ見えない。
それを見た美咲は、一気に顔を引きつらせた。
「じょ、冗談………だよね?」
再度確認するように美咲は言った
すると、玲菜は俺を横目でチラッと見た。
「私は本気よ」
「…」
「…」
「…え?え?……え〜〜!?」
美咲の声がクラスに響き渡った。
クラスメイトが何事だとこちらを見て、教室が急に静かになった。
じーじー、と蝉の泣き声が窓の向こうから聞こえてくる。
ああ、今日も暑くなりそうだ、と思った。


「お〜、お〜、お〜、英、英、英」
校門から外に出ようとすると、背後から声をかけられた。
こうやって、連呼して声をかけてくるのは、知っている限り一人しかいない。
健也だ。
振り返えろうとすると、その前に前にがっしりと肩を組まれた。
「最近はどうですか?英先輩」
超至近距離で、にやにや、と笑いながら、おまけに、へんな台詞を言ってくる。
「あ〜…まず、俺の答えを聞く前に、そっちの近況を聞かせてくれ」
健也はふっふっふ、と意味深に笑い、にやにやと笑みを浮かべた。
「聞きたい?」
「…」
「…」
「…やっぱりやめた」
どうせ、可愛い彼女さんとの、のろけ話を聞かされるに決まっている。
もう、こっちは玲菜のことで、頭がオーバーヒート寸前だし、いやーな、汗が止め処なく出てくる。
「え〜、聞いてくれよ〜」
健也はそんなことを言いながら、体格に似合った大きな両手で、首を絞めてくる。
ぐえぇ。
「聞いてくれって」
ここは分かったと言わないと、開放してくれそうに無い。
健也の手をバシバシと叩いて、ギブの意思を伝える。
このまま、ここで死ぬのだけは勘弁である。
そうすると、健也は手の力を抜いた。
「分かった、分かった」


テストも何とかクリアし、健也に捕まりながらも、やっと家に帰ってこれた。
午前授業だから、学校自体は短いには短いのだけれども、精神的に長かった。
朝から冷や汗かかされるし、美咲は様子が変だし、頭がテストモードに切り替わらないし、
おまけに、健也からのろけ話を聞かされるし。
本当に勘弁だ。
「あ〜、疲れる」
制服から私服に着替え、リビングに入る。
濁った空気を変えるために、窓を全開に開けて、扇風機のスイッチをぽち、と押す。
ぐぉーー、という音を立てて、扇風機が回りだした。
扇風機が首を振り出したのを確認して、ソファーにごろん、と横になる。
足がはみ出してしまうけれども、なんか考えることが多すぎてまったく気にならない。
「…」
それにしても、今朝の話をクラスメイトの連中に話を聞かれていなかったのが幸いだ。
なんせ、人のネットワークは恐ろしい。
一部の人を除き、大部分の人がその日のうちに情報を仕入れることになる。
しかも、それならまだいいものの、10人もリレーをすれば、改ざんがかかって、大抵は嘘になっている。
二昔前のトランジスタを使った、リレー式コンピューターよりたちが悪い。

「…」
あー、考えるのも疲れる。
寝よ、寝よ。

……
………


ピンポーン、ピンポーン、と脳を眠りから覚ますように、間の抜けた音が聞こえる。
「……誰だ〜」
間抜けな音だけに、目覚めもいいとは言いがたい。
ふと、時計を見ると、まだ4時を回ったばかりだった。
3時間寝たのか…
そんなことを考えつつ、まだ眠っている体を動かし、玄関のドアを開ける。
「はーい…って、美咲か。どうした?」
来客は美咲だった。
こういうパターンはいつもあるので、別に変とは思わないのだけれども、
今は、変に思える理由が一つあった。
なんか、美咲にいつもの笑みがない。
「ちょっと、上がらせてもらっていいかな?」
「あ、ああ」
いつもとは違う、美咲の表情に少し戸惑ってしまう。
なんだろ、なんかいやーな予感がする。
自分の部屋に通すのも"なん"なので、いつも通りリビングに通す。
「適当に座ってくれ。飲み物はいるか?」
「ううん、今日はいらない」
薄い青色のワンピースに身を包んだ美咲は、片手を軽く左右に振った。
「…そうか」
キッチンに向けた足を反転させる。
全開になった窓の外から、じーじーじー、というセミの鳴き声が聞こえる。
なんか、今日はやけに空気が乾燥している気がする。
「で…何用ですか?」
言いながら、美咲が座った反対側のソファーに腰掛ける。
美咲は真剣な表情をしていた。
こちらも、それに引きずられ、無意識に顔が引きつる。
「…」
「…」
「ねぇ…」
美咲が躊躇いがちに口を開いた。
「今朝の事なんだけど……」
…そうきたか。
「玲菜に告白された…って本当なの?」
扇風機の人工的な風が頬に当たる。
不意に、背筋がぞわっ、と波立った。
「…」
突然のことに、言葉に詰まる。
この場合、どう答えればいいんだろうか。
でも、玲菜が今朝方のような爆弾発言をしているから、隠しても意味の無いような気はする。
「ああ。…言われたよ」
美咲は呟くように、そう、と言い、視線を落とした。
そして、再び顔を上げると、俺の目を見た。
「英君は、どう思ってるの?どう答えるつもりなの?」
「…」
どうなんだろう。
玲菜の事は好きだけれど、付き合うとなると、
「よく……分からない」
「…」
「…」
「…自分の気持ちでしょ?なんで分からないの?玲菜は本気だよ」
言葉がずーん、と心に響く。
目を見ることができず、すぐに目を逸らしてしまう。
分かっている、分かっている。
玲菜が本気だと言うことぐらい。
「…」
「…なんで?」
美咲の真剣な眼差しが、俺の目を捉えた。
軒下にぶら下がっているガラスの風鈴が、ちりん、と音を立てる。
「それは…」

…美咲のことが好きだから。
それも、友達としてではなく、幼馴染としてでもなく、
一人の女性として。
間違いなく、俺は美咲に恋愛感情を抱いている。
今はそう、断言できる。
ただ、それに自ら霧をかけて、うやむやにしていた。
拒否され、否定されるのが怖いから。
自信が無いから。
今のままでもいい、と思っていたから。
だから、答えを出すのを渋っていた。
「…それは……美咲のことが好きだから」


美咲は、一瞬、驚いた表情をすると、背中を向け、
じゃあ、玲菜にはなんて言うつもりなの?と一言残して、帰っていった。
その声は、冷たく、冷め切っていて、
もう、戻ってこないような気がして、心がひどく痛んだ。
なにか、いままでの関係が波状してしまったような、そんな気がした。
相変わらず、自分はバカだ、と思う。
望まなければいいのに。



……
………
かー、かー、とカラスの鳴き声が聞こえてくる。
誰もいない教室に、西日が照りつける。
結局、玲菜にも、美咲にも、何も話せないまま、金曜の放課後になってしまった。
大体、なんて話せばいいのか分からない。
美咲とも話ができなかった。
今週はテストがあったのだけれど、上の空で問題を解いていたような気がする。
両方とも、いい結果が出るか、悪い結果が出るか、全く分からない。
灯台の元暗し、と、一寸先は闇が合わさった状態だ。
「…」
どうすればいい、どうすればいいんだ?と暗示のように自分に言い聞かせながら、帰宅の準備をする。
なんか、今週は、いろんなことがありすぎて頭がついていかなかった。
それは、今でも変わらないけれど。
今日はゆっくり眠りたいところだ。
「英、部活くるか?」
かばんを担いで、教室を出ようとすると、勇治が声をかけてきた。
「悪い、今日は気が乗らないからパス」
すまなそうな顔をすると、勇治は苦笑いを浮かべた。
「だとは思ったけど。文化祭までに作品作るようだからな、頭に入れておいてくれよ」
「分かった。適当になにか描く」
勇治は、そうか、と頷いた。
「文化祭についてはそれでいいよな」
「ああ、まあ、何とかなるでしょ」
「だといいけどな」
勇治は、ははは、と乾いた笑いをすると、ふぅ、とため息をついた。
「あー、部員ほしかったよな」
「全くだ」
俺が言うと、勇治は声のトーンを落し、真剣な顔つきになった。
「それよりさ…」
「気がどっかに行ってるような感じだけど、どうかしたのか?」
やっぱり、分かるか。
できるだけ、いつもの通りの行動を心がけてたつもりなんだけど。
「あ〜……大した事じゃない」
「本当か?」
勇治は納得のいかないように顔をしかめた。
大した事ではあるけれど、今は他言しないほうがいい。
「言いたくなければいいけどな。考え事して交通事故にだけは遭うなよ」
そう言うと、勇治は背中を向けて、美術室のある方向に歩いていった。
その光景を見ながら、交通事故にあわないようにしないとな、と本気で思った。


スーパーで、カップめんと飲み物を買ってから、帰宅する。
夕日が傾きかけ、空を茜色に染めている。
ヒグラシの鳴き声があたりに響き渡っている。
どこか遠くで、かーかー、とからすの鳴き声がした。
「…」
自宅の前に着いて、何気なく美咲の家を見上げる。
あいつは今、なにをやってるんだろう。
月曜日以来、今週はまともに言葉を交わしていない。
朝も、来なかったし。
たった数日間、美咲の笑みを見ていないだけで、違和感を覚える。
心に穴が空いてしまったような、そんな感じ。
「…」
さすがに、月曜日はバカな事を言ったと思う。
何も言わなければよかったものの。
あ〜、自己嫌悪に陥りそう。
考えるの止め止め。
考えを振り払って、玄関の鍵を開け、ドアを開ける。
「…ん?」
開かんぞ?
もう一度鍵を開けなおすと、今度は素直に開いた。
壊れたか?
「ただいま〜」
玄関を開けて、癖の一つである挨拶をすると、おかえりー、という間延びした返事が返ってきた。
「…」
この声は美咲か?
来る、とは一言も聞いてないが。
疑問に思いながら、リビングのドアを開けると、エプロン姿に身を包んだ美咲がキッチンに立っていた。
キッチンでエプロン姿、という事は、夕食を作っていてくれてたのか?
エプロン姿の美咲を見るのは1週間ぶりだっけか。
美咲は俺と視線が合うと、すまなそうに視線を落とした。
「…先に上がっちゃっててごめんね」
「いいって、いいって。気にするなよ」
美咲のいつも通りの返事を聞いて、ほっとした。
てっきり、美咲に嫌われてしまったと思っていたから。
かばんをソファーに、ぽん、と放り投げる。
「テスト、どうだった?」
美咲がそうたずねてきた。
テスト…ね、正直記憶があいまいなんだよなぁ。
まあ、でも、いつも通りくらいはできたと思う。
「ぼちぼちなんじゃないかな。…美咲は?…って聞くまでも無いか」
苦笑いを浮かべながら、リビングに入り、冷蔵庫を開ける。
「そうだねぇ、いつもと同じぐらいかなぁ」
「いつもと同じねぇ…」
美咲のいつもは、俺の絶好調プラスアルファぐらい。
ま、勉強が頭に入りやすいのも特技と言うか、技術の一つなんだろうな。
もちろん、勉強をしっかりしているというのが一番効いていると思うけど。
「相変わらず、頭がいいんだな」
「そうでもないよ」
「クラスで3位をとったお前がそんなこと言うな。嫌味にしか聞こえん」
「ふふふ、考えすぎだよ」
キッチンに入り、冷蔵庫を開けようと、美咲に背中を向ける。
「絶対に考えすぎじゃないと思う」
「そうかなぁ」
美咲は、くすくす、と可笑しそうに笑った。
「そうだって」
そんなやり取りしながら、冷蔵庫をあける。
すると、ひやっとした、空気が流れ出してきた。
なんとも、心地よい。
冷気を味わっていようと、中を眺める。
「…」
しかし、それにしても、冷蔵庫の中すかすか。
一人暮らしで4ドアタイプの冷蔵庫はいらんぞ。
飲み物を入れて、ドアを閉める。
「え〜っと…」
カップめんは、戸棚の中、と。
こっちも、すかすか。
生活感ないなー。
「あー!―」
戸棚を開けて、カップめんをしまおうとすると、美咲が唐突に声を上げた。
「―またカップめん買ってきたの?」
「え?あ?これか?」
美咲が言っているのは、俺が手に持っている1個78円のカップめんの事らしい。
「そんなものばっかり食べて、体壊したらどうするの?」
美咲は呆れたような、心配そうな、そんな表情をした。
「…なんと言ったらいいか」
普通の料理より、体に善いわけ無いのは分かっているけど、止めようにも止められない。
なんせ、楽だから。
「私に言ってくれればいいのに」
「ばーか、いつもいつも、迷惑かけるわけには―」
棚にカップめんを全部突っ込み、立ち上がり、美咲を見る。
「―いかないからな」


美咲がテーブルの向こう側から、にこにこ、と微笑みながら、俺を見ている。
テーブルの上には色とりどりの料理が美味そうに並んでいる。
見ているだけでも、腹がいっぱいになりそうだ。
「どう?美味しい?」
「お……これはかなり美味い。一体、どうやって作るんだ?」
「ふふふ、それは……企業秘密」
美咲はくすくす、と笑った。
「はぁ。さようですか」
久しぶりに美咲の手料理を食べたけれど、やっぱり美味い。
作っているときも、動きに無駄が無く、流れるように料理を完成させてしまう。
不思議でもあり、驚きでもある。
「ところで、これはなんという料理なのですか?」
「これは、筑前煮」
「ほう。これは?」
「豚肉の野菜巻き」
「ん〜…」
こいつはプロだ、プロ。
俺の一挙一動を、にこにこと微笑みながら、見ている。
料理ができて、家事万能。
成績もいいし、性格もいい。
彼女になれる人は、幸せだろうな、と本気で思う。


美咲と夕食を取ってから、2階のベランダに腰をおろして、空に輝く星を見上げる。
美咲が、せっかくだから見よう、と言いだしたのだ。
「きれいな天の川だよね」
「全くだ。あんまり夜空って見ないけど、こうやってみると、きれいだよな」
「うん」
「…」
「あれが、北極星だよね」
「ん?北極星がそんなに南にあるか?あっちだろあっち」
「火星は?」
「あの東南にあるあれ」
「あれは?あの星」
美咲が指差した先には、一際大きく光る、こと座のベガ。
夏の大三角形を構成する星の一つだ。
「ああ、ベガね」
「じゃあ、あれがアルタイルだっけ?」
「わし座のな」
「ふ〜ん」
美咲はうんうん、と頷いた。
ベランダをそよそよと夜風が吹きぬける。
夏のわりにはずいぶんと過ごしやすい。
「…」
「…」
「…」
「…」
星空を見上げながら、一体何年前の光なんだろうな、と考えてみる。
沈黙の中で、風が木々の葉っぱを揺らす音と、虫たちの鳴き声だけが耳に届く。
「?」
急に体の左側が暖かくなった。
視線を空から下ろして見てみると、美咲が体を預けてきていた。
そっと、肩を抱き寄せる。
すると、美咲は更に体を預けてくれた。
美咲の適度な重みがかかる。
それとともに、より一段と美咲の暖かさが伝わってきた。
「…」
「…」
美咲の温かさを感じながら、夜空を再び眺める。
「…」
「…」
静かなものだ。
美咲も、俺も、なにも言わない。
それに、何も言わなくてもいいような気がした。
言葉で絆を取り繕うことなんてない。
「ねえ、英君……」
「ん?」
美咲がふいに口を開いた。
「……私は英君の事好き」
「…」
「……英君は私のこと好き?」
美咲は、星空を見上げたまま、言った。
静かで穏やかな声だ。
全然驚かなかった。
美咲の気持ちには気が付いていたような気がする。
ただ、それは自分勝手な解釈だけで、実際はそうじゃないかもしれなかった。
だから、怖くて、答えようとしなかっただけ。
ようは逃げていただけだ。
でも、今は、答えるまでも無いような気がした。
それに迷いは、全く無かった。
「俺は、美咲のことが好きだよ。友人としてじゃなくて、一人の女性として」
考えていたことが、するする、と口から出た。
自分で言っててからに、顔が赤くなるのが分かった。
顔を見られまいと、そっぽを向く。
「…」
「…」
静かな時間が過ぎていく。
美咲は俺に体を預けたまま、ありがとう、と小さく言った。
もう一度夜空を見上げると、一面に星が瞬いていた。





初版完成日
2004/06/27







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