身近にある絆
(第十話)



美咲の誕生日会をやった翌日、美咲はいつになく上機嫌で、手料理を作ってあげる、と言ってきた。
嬉しかったけれど、迷惑をかけるわけにはいかないので、一応、断った。
そしたら美咲は、にこにこと明るい笑みを浮かべて、こう言った。
『誕生日会、開いてくれたでしょ?そのお返し。』
そのセリフを聞いた時、俺は思わず眉間を押さえてしまった。
俺は日ごろのお礼にと、誕生日会を開いたんじゃないか。
そのお返しをされたら、やった意味が無い。
もう、キャッチボールが終わらない、終わらない。


7月になっても、まだ梅雨明けはしていなく、例の如く、じめじめと多湿な日々が続いていた。
唯一の救いはもう少しで夏休みに入るということなんだけれど、
何も問題がなく、夏休みに入れるわけがない。


きーんこーんかーんこーん、と授業の終了を知らせる放送がなる。
これで、午前の日程は終了ということになる。
みんなが開放感から、わいわいと騒ぎ始めると、
和田ボスは注意を引くように、トントンと出席簿をならした。
「来週にある期末テストの範囲はだな、問題集の12ページから53ページだ。
きちんと勉強しておけば大丈夫なはずだからな、手抜きするなよ。・・・じゃあ、今日はこれで終わる。」
日直が号令をかけると、みんなは一斉にちらばった。
夏休みに入るための関門、それは期末テスト。


「ねえ、美咲、ここの問題解かる?」
「え〜っとね、ここのH2SO4・・・つまり硫化水素は・・・」
玲菜と美咲がそんな事を話している。
目線を隣に移すと、勇治が熱心に公民の教科書をノートに書き写していた。
流石、クラス8番以内である。
食堂で昼食を取ったあと、俺らは図書室で教科書を広げ、勉強会もどきをしていた。
なぜ、そんな事をするのか、と聞かれれば、それは来週に期末テストが待っているからだ。
言い出したのは玲菜で、俺が『珍しい事もあるものですなぁ。』と言ったら、膨れっ面になって、バシッと頭を叩かれた。
図書室は教室の2,3倍の大きさで、本の種類と数は比較的多い方に入ると思う。
有名な近代作家の小説や、海外小説などが、置いてあったりして、
本好きにはたまらない場所である。
今日も、その本を求めてかどうかは知らないけれど、
10人ほどの人が、読書をしたり、勉強をしたりしている。
みんなが熱心に勉強している中で、自分の手だけが唯一止まっていた。
どうも、入荷したばかりの本が気になって仕方が無い。
『最先端の自動車機械工学』
受付の前の新刊コーナーに置かれたその本は、よく本屋で見かけるもので、毎号毎号いろいろな特集を載せている。
値段は1000円を超えるもので、それを2週間も無料で借りる事が出来るとなれば、掘り出し物に違いない。
「・・・」
急がば回れ、という言葉はあるけれど、物事は迅速さが必要である。
・・・と、自分は思う。
というか、思いたい。
席から立ち上がると、3人とも一斉に顔を上げた。
「あれ?どこかいくの?」
美咲が不思議そうな表情で、聞いてきた。
「まあ・・・な。」
「早く戻ってきなさいよ。」
へいへい、と玲菜の言葉を流す。
「あ、英、飲み物買ってきてくれないか?」
「おいおい、ここは、飲み食い禁止だぞ。」
「そういや、そうだった。」
勇治は肩をすくめた。
この学校の場合、本を借りるのはかなり簡単である。
借りたい本を図書委員に渡して、自分のIDを言えばいいのだ。
ちなみに、自分のIDは『2002031』。
話によると、入学した年と、学年全体での出席番号で、出来ているらしい。
言った番号は、委員がパソコンに入力して、本のバーコードをリーダーにかける。
それで、完了。
借りた本を片手に席に戻ると、早速聞かれた。
「何、借りてきたんだ?」
「ん〜・・・これ。」
題名を言わずに、本の表紙を見せる。
「ははぁ〜・・・」
すると、3人は納得したようにうなずいた。
「それって、英の部屋の本棚にあったものか?」
「まあな、号数は違うけど。」
ぱらぱら、と本をめくりながら答える。
「毎号買ってるの?」
美咲が聞いてきた。
「俺はあんまり買わないけど、親父がいつも買ってるよ。」
で、親父の読んだやつを自分が貰う・・・と。
多分、出張先でも買って読んでいるはずだから、あとで持ってこい、とでも言っておくか。
「でも、英って、本当に機械好きだわよね。」
「それは、私も思う。」
「俺も。」
「最後には、彼女まで機械にするわよ。きっと。」
「あほか。」
一体、何年後の話だよ。
それに、ロボットを彼女にするのか、彼女をロボットにするのか、どっちよ?
「ところで、なんで、工業系の高校に行かなかったの?」
美咲が、心底不思議そうな顔で聞いてきた。
「・・・なんでって・・・・・・」
なんでだろ。
言葉が見つからずに、詰まってしまう。
素直に工業高校に入ればよかったものの、なんでわざわざ普通高校を選んだのか。
何かが、足を引っ張って、行くのを拒んでいたような気がするけど、
・・・分からんなぁ。
「まあ、気分だな。」
明るくそう言って、茶を濁しておく。
濁しておけば、後々、楽に加工ができるからな。
「虫の知らせはバカにはできないけどよ、気分で物事決めると、ろくな事無いぞ。」
「いや〜、分かってはいるつもりなんだけどな。」
とか言って、誤魔化しておく。
「じゃあ、もし英が、工業高校に行ってたら、私と勇治とは、知り合わなかったわけよね。」
「・・・まあ、そうなるな。」
勇治が俺の言葉に相槌をうった。
「何か、運命的なものを感じない?」
玲菜が珍しく、うきうきしたような感じで言った。
「運命ねぇ・・・」
「そうそう。」
目を輝かせている玲菜を視界の隅に入れながら、シャープペンの裏で額を押さえる。
まあ、地球がある自体、稀なんだから、運命・・・と、言えなくはない。
「運命的・・・って、運命も何も、小宮と英の前世って、姫君とその手下・・・じゃなかったか?」
勇治は、にやにやと薄ら笑いを浮かべながら、ペン先で俺と玲菜を交互に指した。
あくまで想像の域をでないけれど、たしかにそんな感じがしないでは無い。
うんうん、と勇治の言葉にうなずいていると、玲菜が驚いたように俺を見た。
「英、私のこと、そんなふうに見てたの?」
「いや、見るも見ないも、実際問題・・・」
話しを続けようとすると、玲菜が手を俺の目の前に突き出してきた。
言うな、ということだろう。
「・・・」
「わ、分かったわよ。これからはやさしくすればいいんでしょ?」
玲菜は俺から目をそらすと、珍しく尻すぼみになりながらもそう言った。
あれ?
視線が玲菜に集中する。
俺なんか、もう、ぽかんとなっていて、開いた口がふさがらない。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・何で、黙るのよ。」
玲菜はみんなの様子を見てから、不愉快そうに顔をゆがめた。
いつもいつも、俺にばかり棘のある言い方をする玲菜が、そんな事を言うなんて意外すぎる。
何かあったか?


放課後になって、教室が空になっても、今ひとつ席から動く気がしなかった。
ぽつーんと教室に一人たたずんでいると、哀愁というものを感じさせる。
鉛色に染まって重く見える空は、降るなら降ればいいのに、と誰にでも思わせるだろう。
「あ〜・・・」
俺の夏休みを阻害するものというのは、他ならぬ『期末テスト』。
それをどう克服するかが問題である。
いくら、授業中黒板に書かれた文字をノートに書き取っているとはいえ、
頭に入っているかどうかは全く不明である。
このままいけば、赤点すれすれか、あるいは赤点をとる事になる。
そうなってしまえば、補修という名の地獄が待っていて、夏休みがパーになる。
それだけはどうしても避けたい。
どうしても。
「・・・」
避けるためにはどうすればいいか。
手っ取り早い方法は、自力勉強。
ノートを見直し、教科書片手にとにかく覚える。
しかし、どこからやったらいいのかが分からないし、
数学なんか教科書見ているだけではなんの解決にもならない。
「誰かに聞くか?」
ここはある程度の成績を維持している・・・というか上位に食い込んでいる勇治に聞くのが一番手っ取り早いけれど、
案外勉強を教えるというのは重労働だ。
いくら親しいとはいえ、親しき中にも礼儀あり、ということわざがあるぐらいだから、
むやみに頼る事は避けたい。
「問題は数学・・・なんだよなぁ。」
呟くように言ったところで、解決にならないのは知っている。
眉間に寄ったしわを解くように揉み解しても、また寄ってきてしまい、意味が無い。
まるで、無限ループだ。
むむむぅ・・・
「どうかしたの?」
頭を抱えて考え込んでいると、頭上から聞きなれた声がした。
ゆっくりと顔を上げると、美咲が心配そうな顔で俺を見ていた。
「あ、いや、なんでもない。」
手を振って、何も無い、という仕草をする。
美咲に教えてもらうか?
サーっとそんな考えが頭をかすめた。
美咲は、クラスでトップクラスだ。
一度、成績表を見せてもらった事があるけれど、正直驚いた。
5,5,5,4,4,5,5のばかりで、体育だけが唯一3。
それ以外は、全て4か5。
あり得ないあり得ない。
俺のような、2,5,4,2,4,3,3、という成績から見れば、驚くしかない。
美咲は一体、どんな勉強をしているんだか。
「?」
我に返ると、美咲が不思議そうな顔をしていた。
知らず知らずのうちに美咲を見つめてしまっていた。
「美咲・・・すまないんだが・・・」
そう言いかけて、ハッとした。
もう、出来る限り、美咲に頼る事は避けたい。
いつも、美咲には頼りっきりで、いつもいつも迷惑ばかりかけている。
前にあった事を教訓に出来ないのか、俺は。
話を切り替えるために、思いついた事を聞く。
「で、美咲。部活は無いのか?」
放課後になってから、もう30分以上たっている。
いつもの美咲なら、もう部活に行っているはずだ。
俺が聞くと、美咲は手を口元に当てて、可笑しそうにくすくすと笑った。
「何がおかしい?」
「先生の話、聞いてなかったの?今日からはテスト期間だから、部活が無いんだよ。」
美咲はまたくすくすと笑った。
たしかに、そんな事を言っていたような気がするけれど・・・
昨日、夜遅くまで起きてたから、ストールしてしまってたか?
「どうりで、校庭に誰もいないわけだ。」
美咲を見ると、まだにこにこと笑みを浮かべていた。
まるで、何かを待っているかのように。
「何も無いんだったら、一緒に帰るか?」
「うん。」
美咲は元気よくうなずいた。


傘とかばんを片手に、美咲と下校する。
こうやって、美咲と一緒に下校するのも久しぶりだ。
たしか、この前一緒に帰ったのは数週間前か。
「家が隣なのにおかしいよね。」
「本当だな。行きはよいよい帰りは怖い、ってか?」
「ちょっと違うと思うけどなぁ。」
美咲はくすくすと笑った。
美咲の顔を思い出そうとすると、必ず微笑んでいる美咲が脳裏に浮かんでくる。
それだけ、美咲はいつも笑みを浮かべていて、なおかつ、印象が強いという事だろうと思う。
おかげで、俺は美咲の側にいると、気が滅入るいる事がほとんど無い。
実際、今だって、テストの事なんかすっかり抜けてしまっていて、
『まあ、なんとななるだろ。』ぐらいにしか考えていない。
それに、今にも雨が降りだしそうなこの曇り空だって、気にならない。
なんか、こいつの周りにはふにゃふにゃとした時間が流れてるんだよなぁ。
ある意味、恐ろしい存在である。


土日をはさんで、来週はテスト期間。
現代文、古文、数学、グラマー、英語、生物、物理、公民、地理、
の9つのテストに、プラス実技教科もやらなくてはならない。
まあ、大体は50点以上取れると思うんだけれども、問題は
・・・数学・・・なんだよなぁ。
応用問題が解けない。
「ん〜・・・」
ずいぶんと遅くなってしまった夕飯の88円カップめんを、一人むなしくすすり食べながら、
教科書とノートを見比べ、教科書に書いてある問題を箸でなぞる。
なになに?
例題2、2点A(1,2),B(3,5)を通る直線の方程式を求めよ。・・・か。
傾きは5-2/3-1。
だから方程式を立てて、・・・y-2=5-2/3-1(x-1)。
・・・だから?
「・・・」
・・・
だから何だ?
そこまでは分かる。
けれど、そこからが分からない。
「・・・」
カチカチカチ、とリビングに時計の音がむなしく響く。
だ〜!
数学は1と2の狭間。
出来るだけ、多く点を取っておいたほうが後々有利なのに、問題が解けないっ。
もっとボスの話聞いておくんだった〜。
今さら後悔だ。
・・・まあ、いい。
風呂入って寝よう。
もう、9時になるし。
ちょっと早いけれど、この疲れは休まなければ取れない。
あ〜、本なんて読むんじゃなかった。
しかし、夜の家ってほんとに静かだよな。


翌日、リビングのソファーに座り、こつこつこつ、と問題をシャープペンでつついていると、
ピロロロロ、ピロロロロ、と軽快に電話が鳴った。
「誰だ〜?」
誰か出てくれ〜、俺はこの問題を解くのに精一杯なんだから。
誰かに頼んだところで、誰かが出てくれるわけでもなく、
電話はピロロロロ、ピロロロロ、と軽快になりつづけている。
「はいはい、今出るよ。」
いいかげんに折れた。
電話をスルーしておくのはよくない。
親父が交通事故をおこした、とかだったら困るし。
「はい、刈谷です。」
嫌味が無いように、声色をニュートラルにする。
『あ、英?』
「玲菜か。・・・どうした?朝っぱらから。」
電話をかけてきたのは、玲菜だった。
玲菜から電話がかかってくるとは、ずいぶんと珍しい。
玲菜の場合、電話するより直接言う、みたいなパターンだから。
『今から、英の家に行っていいかな?』
「はい?」
『物理、教えてくれない?』
「ん〜・・・」
窓際によって空を見上げると、やっぱり雨が降りそうだった。
これは、降るな。
『ダメ?』
「いや、ダメではないけど、なんで俺よ。勇治に頼めばいいんじゃないか?」
『えっ?・・・で、でも、勇治君は出かける・・・とか言ってて・・・』
「ん〜・・・」
玲菜は妙にひっかかりながらも、そう言った。
玲菜が来てからの事をシュミレートしてみる。
物理を教える・・・と、まあ俺が物理をある程度出来るからといっても、ミスが無いわけじゃない。
弘法も筆の誤り、と言ったら、弘法に失礼だけれど、ニュアンス的にはそれに近い。
うっかり、答えをミスすると・・・どっかーん。
流石に弓矢は持ってこないとは思うけど・・・。
「まあ、いいだろう。」
俺はそう答えを出した。
まあ、玲菜との絡みが嫌なわけじゃないし。
ただ、細胞が何千か圧死するだけのはなしだ。
『いやに、偉そうだわね。』
「気にしない方がいいぞ。」
『今から行くから、ちゃんと掃除しておいてよ。』
「へいへ〜い。」
電話機を充電器の上に置く。
過充電にならんのか?という話だが、そんな事はどうでもよい。
「掃除だ、掃除。」
いくら玲菜と言えども、お客が来るのだ。
"多少"はきれいにしておく必要がある。
客間にでも通した方がいいかな?
「さ〜て、さてさて・・・」
なんで、俺、張り切ってんだ?


ピンポーン、とインターホンが鳴った。
相変わらず、間の抜けた音である。
「はいはい、今出ますよ。」
多分、玲菜だろう。
リビングを出て、玄関のドアをガチャ、と開ける。
「刈谷英則様でらっしゃいますか?」
「はい・・・そうですが・・・」
ん〜、なぜに郵便局員?
しかも、男?
「現金書留なんですが、サインかはんこもらえますかね?」
「あ〜・・・はいはい。」
なんだ、てっきり玲菜が変装してるのかと思ったぞ。
現金書留・・・しかも俺にって事は、生活費が入ってるはず。
財布がすかすかになりかけていたから、丁度いいタイミングだ。


リビングに戻ってきて、早速、封をきると、中から福沢諭吉さんが3枚ほど出てきた。
「お〜・・・」
思わず、歓声を上げてしまった。
このぐらいあれば、一ヶ月どころかもっとすごせそうだ。
親父さんに感謝。


空き巣でも分からないような、突拍子の無いところに諭吉さんを隠していると、
再び、ピンポーン、とインターホンが鳴った。
相変わらず、間抜けな音である。
「はいはい、今出るよ。」
リビングから出て、玄関のドアをガチャ、と開ける。
今度こそ、玲菜だろう。
「・・・・・・あ」
絶句した・・・というか、息が詰まった。
玄関先には、女の子が立っていた。
白のブラウスにロングスカートを着ていて、ストレートの黒い髪をゆるくアップしている。
あまりにも整った顔立ち。
あまりにも美しい・・・というか可愛すぎて、固まってしまう。
「ひ、英?」
おどおどと言ったその声は、どこかで聞いた事のあるような声質だった。
はて、どこかで・・・
玲菜!?
「・・・わ。・・・れ、玲菜・・・どしたの?」
その格好。
と、付け加える。
ジーンズにジャケットの組み合わせをクールに着こなす玲菜が、
今はずいぶんと可愛らしい格好をして、玄関先に立っている。
なんか・・・すごい。
学校の連中が騒ぐのも無理・・・ないわなぁ。
多分、駅前に立ってたら、なんだらの嵐だな。
俺も声かけそうだし。
いや、かけるね。
「似合ってる・・・かな?」
頬をすこし赤くした玲菜は、上目遣いでそう聞いてきた。
「いや、似合ってるも何も・・・」
一歩下がって、全身を見てみる。
いやいやいや、いつもの玲菜とはこれまた違う。
玲菜の美人さは、結構有名だけれど、それに可愛らしさがプラスされたような・・・
うわぁ・・・
ん〜・・・なんと言ったらいいか。
似合ってるには間違いない。
というか、・・・可愛いです。
「・・・似合ってる。」
他の台詞がどうも思いつかないので、結局、定番を言ってしまった。
というか、可愛い、とストレートに言う根性は今のところ無い。
「ありがと。」
「ま、まあ、上がってくれ。」
「お邪魔します。」
いやー・・・どっきり?


玲菜を客間に案内してから、飲み物を両手に2階の客室に帰還する。
2階の客間・・・みたいな部屋は、よく親父が会社の社員たちと使っていたらしい。
部屋の構造は東西に長方形の形をしていて、東側の壁には、びっしりと本棚が並んでいる。
あまりの数に、何があるのか、調べる気にもなれない。
ソファーは3人座れるのが二組あって、ガラステーブルをはさむように置いてある。
上座が無いのは、親父が、上下関係は好きじゃない、と言った為だそうだ。
「おまたせ。」
開けっ放しのドアを閉めて、エアコンの設定をドライにする。
「ん?」
ソファーを見ると、玲菜がちょこーん、とかしこまって座っていた。
「どうしたのよ。」
そう、聞いてみる。
「私にだって、こんな格好したい時だってあるわよ。」
玲菜はそう言うと、そっぽを向いてしまった。
いや、俺が聞きたいのは服装だけじゃなくてだな、
何でそんなにかしこまってるか、という事なんだけどな。
まあ、いいか。
「じゃあ、なんで今まで、そんな格好しなかったんだ?」
玲菜にオレンジジュースを手渡す。
「それは・・・私に似合わないと思ったからよ。」
「いや、でも、もったいない。」
玲菜が座っている反対側のソファーに座りながら、言う。
「え?」
「いやな、いつもの服装も似合ってるけど、そういう服装も十分合ってると・・・俺は思うよ。」
「本当に?」
「ああ。」
うんうん、と肯く。
すると玲菜は、ふぅ、と気が抜けたように息を漏らした。
「あ〜、良かった。似合わないって言われたら、どうしようかと思ったわよ。」
「そ、そうなのか?」
この玲菜の服装を似合わないって言う人はいないと思うけど。
「でも、結構恥かしいわね。人の視線が気になって気になって。」
う〜ん、やはり人々は気になるか。
ただでさえ、目立つもんなぁ。
「なら、なんでわざわざそんな格好してきたんだ?」
話をあたまに戻して、聞いてみる。
なぜ、わざわざそんな・・・・・・可愛らしい格好をして、俺の家まで来たのか。
こっちから寮に行く事も出来たし、私立図書館に行く事も出来たはず。
なぜ?
「・・・」
「・・・分かんないかなぁ。」
玲菜は、ため息をつくように言うと、俯いてしまった。
いや、分からん。
全然、わかんない。
「・・・」
しーん、とやけに静かになる。
あたりまえだ。今この家にいるのは、俺と玲菜だけ。
そういえば、こうやって、玲菜が一人でやってくるのは初めてだな。
初めてで・・・二人きり?
「・・・」
「・・・」
いやいや、待て待て、かなりやばい状況じゃないのか?
普通、こんな可愛らしいクラスメイトと二人きりになってしまったら・・・
『が〜!』
と、狼化してしまってもおかしくない。
玲菜が魅力的な女性に見えてくる。
あたりまえなんだけど、あたりまえなんだけども、
今まで抓られていただけに、なんかこう、どかん、と反動が凄い。
「・・・」
玲菜は俯いたままで、表情が全く読み取れない。
ただ、からだがなわなわと小刻みに震えている。
「・・・」
「どしたの?」
俯いた玲菜の表情を窺おうと、覗き込む。
う・・・読み取れん。
「あ〜、もうっ!この、鈍感っ!」
「のわっ!」
玲菜が突然立ち上がり、声をあら上げた。
驚きのあまり、体を思いっきり引いてしまう。
けど、体を引いたのは失敗だった、と次の瞬間思った。
「あ〜・・・」
ちょっとした浮遊感が体を包み、普通なら見えない天井が正面に見えた。
倒れるな、これは。
そう、思った瞬間、ガズン、と鈍い音とともに、後頭部に鈍痛が走り、
視界がブラックアウトした。


意識が戻ってくると、頭部の痛みがビリリ、と疼いた。
「いっっ〜・・・!」
痛さのあまり、声が喉に詰まった。
まさかマンガみたいな事をしでかしてしまうとは。
弱すぎ、俺。
「ひ、ひ、英!?」
視界が涙で、ぼやけていてはっきり見えない。
ただ、あせった様子の玲菜の声だけがはっきりと聞き取れた。
「英!?、だ、大丈夫!?」
ぐらぐらと、肩をつかまれ、体が揺すられる。
そのたびに、床と後頭部が接触し、びりびりと痺れる。
「わ、分かったから、揺らさないでくれ・・・」
「・・・」
そう言うと、玲菜は揺らすのをやめた。
涙が目に溜まって、周りの状況がいまいち確認できない。
頭を押さえながら、ゆっくり立ち上がる。
「いってぇ・・・」
「だ、大丈夫?」
玲菜の心配そうな声がした。
もしかして、気絶・・・してたのか?
こんなので、気絶するとは随分とやわなもんだな。
「いてて・・・」
また頭がズキンと痛んだ。
ただ、気絶していたわりには案外平気だ。
手も動くし、足も動く。
身体能力にエラーは見受けられない。
ただ、後頭部に細胞壊死エラーが発生している。
まあ、細胞分裂で回復できるレベルなので問題は無い。
目の涙を手で拭い取ると、今にも泣き出しそうな玲菜の顔が目に飛び込んできた。
「お、おい・・・」
こっちの方が驚いてしまう。
なんで、泣きそうなんだ?
「ひ、英・・・頭、大丈夫?」
玲菜はそう言うと、まだ泣きそうな目で俺に近づいて、後ろからそっと後頭部に手を当ててきた。
「あてて・・・」
玲菜の指先が触れた瞬間、しかっとした痛みが、頭を貫いた。
「ご、ごめんなさい。」
「い、いや・・・謝る事はないぞ。」
俺のオーバーリアクションが原因だし。
「もうちっと、神経が図太ければなぁ、あそこまで驚かなかったさ。」
俺は苦笑いをしながら、そう言った。
実際、そうだし。
神経が図太い人には憧れるよ。ほんと。
「英・・・」
「ん?」
振り返ろうとしたとき、突然、背中が温かさで包まれた。
え?
玲菜に・・・抱きしめられてる、と気付くのには、少しの時間がかかった。
細い手が、俺の胸板に回されている。
背中にはまぎれも無い、人間の温かさがあった。
「ごめんなさい・・・私、英が・・・英が死んじゃうと思って・・・」
背中から、ひっく、ひっく、と嗚咽が聞こえてきた。
玲菜が泣いている?
俺が死ぬと思って?
玲菜の手をほどいて、玲菜と向き合う。
「死ぬわけ無いだろうが。ったく、オーバーだな。」
「だって、だって・・・」
「落ち着けって。」
「・・・うっ・・・うっ・・・」
ズボンのポケットから、ハンカチを取り出し、涙をぬぐってやる。
「私・・・あなたの事が・・・好き・・・だから・・・」
玲菜は、嗚咽し、尻すぼみになりながらも、言った。
ん〜・・・え?
は?今、玲菜はなんて?
「・・・」
「・・・」
え?


何分の時間が過ぎただろうか。
俺は完全に石と化してしまっていて、身動きが取れなかった。
そして、玲菜はソファーの背もたれに腰をかけて、淡々と話し始めた。
「私・・・英と始めてあった時、さえない男だわ、って思ってた。」
玲菜はチラッと俺を見た。
否定は出来ない。
実際に俺はあまり目立つ方じゃないから。
「・・・」
「私には合わないと思った。勇治君のほうがよっぽど活動的で素敵に見えたから。
でも、付き合いはじめてから、しばらくして、それががらっと変わったの。
やっぱり、原因はあの日。去年の丁度今ごろかしら。
英は全然覚えていないと思うけど。」
玲菜はいたずらっぽく、くすっと笑った。
「強くて、冷たい雨の日だったかしら?
私は傘が無くて、どうしようかな、って昇降口で一人立ってた。
そしたら、あなたがやって来て、言ったのよ。
『なんだ?玲菜。傘無いのかよ。バカだねぇ。天気予報ぐらい見とけよ。』
って、正直むっとしたわ。反論しようとしたけど、あなたはすぐに続けた。
『仕方ないな、ほら、傘かしてやるよ。俺、今日帰るの遅くなりそうだし、
もう一つ折りたたみ持ってるしな。明日になったら返してくれ。』
って。二つ持ってるなら、借りてもいいかな、って思った。
あなたの大きめの傘を借りて、寮に帰ったわ。おかげで雨に濡れなくてすんだ。
寮に着いてから、1時間ぐらい経ってからだったかしら、私、友達と休憩室で話をしてたの。
笑い話に一段落して、私は窓から外を何気なく見たわ。
『え?』って思った。あなたが、傘も差さないで小走り気味に坂を下りていったから。
見間違うわけは無かった。弓道やっていて、視力には自信があったから。
それに、まだ4時半。雨が降っていたけど、そんなに暗くはなかった。
『なんで、傘使わないんだろう。バカね。』ってその時は思った。
それから3日後ぐらいだったかしら、その日も、雨が降って、私が困っていると、
あなたは、また一言悪態をついてから、傘を貸してくれた。
その日も、昨日と同じような時間に外を見ると、やっぱり英が、傘を持たずに走っていった。
それを見て、ハッとしたわ。
『傘なんか最初から一つしかなかった。それなのに、私に傘を貸してくれた。』・・・ってね。
でも、それだけなら大した事無かった。
その次の日、私は英に聞いたの。
『英、あんた、傘一つしか持ってなかったでしょ。
それを私に貸して、英は雨の中走って帰ったわよね。』
って、私は聞いたの。
そしたら、あなたなんていったと思う?
あなたは、こう言ったの。
『人違いだよ、人違い。玲菜、目悪くなったんじゃないのか?』
そう言って、あなたは、私をけらけらと笑った。
間違いなく、あなただったのに。」
「・・・」
何も言う事が出来なかった。
そういえば、そんな事もあったような気がする。
昔の事だから、何もいえないけれども。
「もう、その日から、私はだんだんあなたに惹かれていった。
あなた・・・英の内に秘めた優しさに気がついてしまったから。
背中を無意識のうちに追いかけてた。
辛い口調で当たってたのは、単なる照れ隠し・・・」
玲菜はふふふっ、と自傷気味に笑ってから、ごめんなさい、と言った。
「・・・」
「あなたに、好きって、ただ一言言いたかった。でも、言えなかった。なぜだか分かる?」
俺は首を横に振った。
見当もつかない。
「あなたの周りには、美咲がいたから。」
え?み、美咲?
「なんで、美咲の名前が出てくるんだよ?」
突然、美咲の名前が出てきた事に理解が出来ず、聞き返してしまった。
「あなたたちは気がついてないみたいだけど、端から見れば付き合ってるようにしか見えないわ。
登校は、仲良く二人並んで、いっつも一緒。
何かがあれば、美咲もあなたを頼りにしているみたいだし、あなただって美咲を頼りにしていると思う。
頼ったり、頼られたりで、まるで、おしどり夫婦。
間に入るスペースなんて、無いように思えた。
私はあきらめようとした。あきらめようとしたけれど、あきらめきれなかった・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
沈黙が、二人の間を包む。
なんと言えばいいのか、全く分からない。
俺が何も言えないでいると、玲菜はソファーの背もたれから腰を上げて、俺の前に立った。
目を合わせることが出来なくて、わざとらしく目を逸らしてしまう。
でも、玲菜はためらいが無い澄んだ瞳で、俺の目を見た。
一瞬だけ視線を戻すと、玲菜と目が合った。
心臓が飛び跳ねる。
今度は視線が外せなくなった。
「もう、ダメなの・・・」
呟くように言った玲菜の目に、涙がじわっと、溢れてくるのが見えた。
ぎゅっ、と胸がしめつけられる。
「・・・」
「もう、自分を押さえられないの。あなたと一緒にいたい。側にいたいの。」
「・・・」
「やさしく抱きしめてもらいたい。・・・キスして・・・もらいたい・・・」
涙をいっぱいに溜めた玲菜は、呟くように言って、とん、と抱きついてきた。
わずかな衝撃とともに、背中に細い手が回される。
体に玲菜の温かさが伝わってきた。
自分の心臓が、バクバク、とせわしなく動いている。
たぶん玲菜にも聞こえているはずだ。
「英・・・」
玲菜は、切なさをいっぱいに詰め込んだ、潤んだ声で、
俺の名前を呼ぶと、背中に回した腕に一段と力を入れてきた。
玲菜の顔が、肩のすぐ下ぐらいにある。
ラベンダーのような清々しい匂いが鼻をくすぐった。
「・・・俺は・・・」
俺は、玲菜の想いにどう答えればいいのだろうか。
こういう時には、なんと返すのがいいのだろうか。
想いの深さを知った以上、軽く流すわけには行かないはずだ。
でも、なんだろう、このわだかまりは。
玲菜のことが好きなのは間違いない。
それは、断言できる。
けれど、けれど。
「玲菜・・・少し、時間をくれないか?俺は、自分の心がよく分かってない。」
「う、うん・・・」
・・・
・・・・・・
俺は、玲菜の肩に手を乗せてやるだけで、
どうしても、どうしても、抱きしめる事が出来なかった。



初版完成日
2004/04/10






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