身近にある絆第六話

身近にある絆(第六話)

放課後、しばし食堂で時間をつぶしてから、美術室に向かった。
「むむむ。」
唸りながら廊下を歩き、手で顎をさする。
唸るとは言っても、原因は大した事ではなかったりするのだけれども。
まあ、その大した事ない内容というのは、健也と憐先生との関係だ。
昼休み、こういうやり取りがあった。

『お守りはどうしたんだ？』
『喜んで受け取ってくれたよ。さすがに、ちょっと受け取ってくれるかは心配だったけど。』
『お、よかったじゃん。』
すると、健也は急に悪戯っぽい笑みを浮かべ、俺の耳元に顔を近づけてきた。
『今度、お礼に隣町で何か奢ってくれるって。』
小さい声でそう言った健也は、嬉しくて嬉しくて仕方が無い様子で、
『誰にも言うなよ。』、と一言言うと、いつもの如くどこかに消えていった。

「･･･」
他人の恋路は気になるばかりだ。
特に、昔からの付き合いの健也だからこそ気になる。
あいつが,ここまで熱心に追っかけてるのも、今回が初めてに違いない。
まあ、頑張って成功するように祈るか。
「･･･」
神社の大鈴を鳴らす真似をしてから、パンパンと手を2回叩き、一礼、そしてもう一度2回手を叩く。
『健也の恋路が路肩に転がらぬように。』
まあ、どの神様にお願いしてるのかは、全く分からないが、まあいいだろう。
「･･･あ」
顔を上げると、美術室のドアが目の前にあった。
ガラガラと音をたてて、ドアが開かれ、訝しげな顔をした勇治が顔を出した。
「何をやってんだか。」
「すいません。」

美術室はいつものとおり、数人の部員しかいなかった。
かなり静かに静まり返っており、先生が打つキーボードの音と、筆を動かす音･･･等しか聞こえない。
まあ、数人しか部員がいないんだから、どうしようもないが･･･。
「で、何用でございますかな。」
平身低頭を心がけて、やたら丁寧に言う。
こういうときの丁寧さが、将来役に立つかもしれないからな。
「書類の更新だよ。こ・う・し・ん。･･･無所属にでもなりたいのか？」
「いえいえ、滅相もございません。」
この学校では、部に加入しているか加入していないかで、進路が決まったりするので、
無所属だけは避けたい。
「だったら、書いてくれ。」
勇治は少し怒ったような声で、紙を突き出してきた。
･･･なになに、部員証明書？
「空白のところに、名前などを記入する事～。」
「はあ。」
勇治は一言付け加えると、自分の作業に戻っていった。
案外、簡単そうでよかった。
美術部に顔を出したからには、ものすごい事をやらされるとばかり思っていたから、これはずいぶんといい。
「英則君。部員なんだから、ちゃんと部に顔出してくださいね。」
椅子に座って、ノートパソコンをいじっていた憐先生が、こっちを向いて言ってきた。
「善処します。」
先生は少し困った表情で『まったく。』と言うと、作業に戻った。
「･･･」
憐先生を見ていると、どうしても、思い出してしまう事がある。
あの可愛いと有名な先生と、健也がねぇ･･･。
街角で歩いていたら、確かに似合いそうだ。
ただ、身長差が凄そうだな。20cmオーバーは確実だろう。
「むむむ･･･さっさと書くか。」
余計な事を考えていたって仕方が無い。目の前の処理に取り掛かろう。

背筋を伸ばして腕時計を見ると、もう30分が経っていた。
結構、書くのに時間がかかったようだ。
「あ～あ～～」
背もたれが無い、木製の椅子の上で欠伸をする。
こんな事務仕事、肩がこって仕方が無い。
「書類完成しました～。」
パソコンの画面と睨めっこをしている憐先生に声をかけると、彼女はしなやかな手つきで、書類を受け取った。
「はい。ごくろうさま。」
憐先生は、書類に目を通している。
おそらく、抜けている個所が無いか、調べるためだろう。
「問題は無いみたいだから、今日は帰っても良いですよ。･･･ただ、最低でも一週間に一回は顔を出してくださいね。」
「はい。」
返事をすると、憐先生はにこっと笑った。
･･･なんというか、笑顔が似合う人だ。
健也が惚れたのも分からなくはない。
そんな事を考えながら見ていると、憐先生はまた画面と睨めっこを始めた。
いろいろとやる事が多いのだろう。
視線を美術室の中に移すと、既に部員が片付けを始めていた。
その中に、勇治もいた。
まあ、部長だし当たり前か。
「勇治～。」
「何？」
筆を持ったまま、こっちを振り向く。
「途中まで一緒に帰らないか？」
「いいぞ。片づけしてから行くから、食堂で待っててくれ。」
そう言うと、勇治はまた片付けを始めた。
今日は何書いたんだ、あの男は。
･･･暇な時にでも見ておくか。

食堂に行くと、まだ5時頃であるためか、部活終わりだと思われる人が集まっていた。
赤色の混じる光が、食堂の中に差し込んできて、観葉植物が陰を作っている。
自販機でスポーツ飲料を買って、適当なところの椅子に座って、
頬杖を付きながら、天井にぶら下がっているテレビを見る。
『明日は、低気圧に覆われ、一時間に10mm前後の雨となるでしょう。･･･』
明日は久々の雨か。
雨降ると、学校来るの大変なんだよな。
傘をかぶっても、足元とかの制服がぬれる。
しばし、天気予報だの、経済情報だのを見ながら、飲み物を飲んでいると、視界の隅に大男が入ってきた。
部のユニフォームを着ていないことから、部活が終わったという事が分かる。
「お、英。」
「部活は終わったのか？」
「一応はね。」
そう言うと、健也はテーブルを挟み、俺の向かい側の椅子に座った。
「智はどうよ。」
「智か。･･･いつものように、部のことになるとうるさくてね。手の抜き方を知らないんだよ。きっと。」
健也は眉をひそめた。
「まあ、あいつは小学の時から、突っ走るタイプだったからなぁ。」
自分で言ってから、久々に昔の記憶がよみがえってきた。
智は、手をいつも抜く事を知らない奴で、とにかく全力投球が好きだった。
特に体育になると、暴走機関車並で、手におえなかった。
それに、人一倍、負けん気が強い事でも有名だったような気がする。
まるで、いのししだ。
「あれが、まだ健在か。」
「うんうん。」
「まあ、それがあいつのいいところだけどな。」
健也は黙って頷いた。
「･･･」
「･･･」
話題に詰まって、二人とも黙ってテレビを見る。
テレビでは、ニュースが終わって、旅行記みたいなのをやっていた。
旅人が、田園風景の中の一本道を歩いている。
それを見てふと気が付いた。
「今年はどこに行こうと思ってるんだ？」
「･･･今年は、東海地方あたりに行こうと思ってる。」
「そうか。」
どうやら、俺と健也が考えていた事は同じだったらしい。
健也は、無類の旅好きで、去年は隣りの県の愛媛に行って、いろいろと見てきたらしい。
しかも、寝袋背負って、野宿をしながら10日ぐらい出かけてるのだから俺から見ると、恐ろしい。
「しかし、ずいぶん遠いところ選んだな。」
俺たちが住む、ところと東海地方とはかなりの距離がある。
「愛知の内陸の方に、親戚が住んでるんだよ。だから、そこで挨拶をして、見てみようかなと。」
「ああ、なるほど。」
「お土産持ってくるから、楽しみにしてて。」
健也はそう言うと笑った。
健也が言う"お土産"とは、その地方の品とか、物ではなく、写真だったりする。
俺は写真について何も知らないのだが、話しによると、一眼レフに35mmレンズだけで、写真を撮るらしい。
ズームレンズとか使わんのか？と聞いたら、なんでも35mmなどの単焦点レンズで撮るのがこだわりだそうで。
ただ、『ガキが撮る写真なんぞ･･･』と、バカになどしてはいられない。
この、トボケが撮った写真は、懐かしさを感じさせてくれるのだ。
昔、誰もが、どこかで見たような風景を、一枚の写真にしてくる。
初めて健也の写真を見たときは、胸が締め付けられるほど感動してしまった。
「ああ。楽しみにしてるよ。」
そう言ってから、一気にジュースを飲み干した。
席から立ち上がって、ごみ箱に空き缶を入れる。
カランと音がした。

「またせたか？」
「いいや。」
健也と雑談に花を咲かせていると、勇治が片付けを終えてきた。
「お、健也もいたのか。」
「旅について、話してたところ。」
「相変わらずだな。」
「そうか？」
健也は不思議そうな顔をした。
「あ、そうだそうだ。」
思いついたことがあったので、ちょいちょいと手招きをして、勇治を呼ぶ。
「？」
首をかしげている健也に背中を向けて、聞こえないように聞く。
「憐先生まだいたか？」
「なんで、そんな事聞くんだ？」
勇治は不思議そうに俺の顔を見た。
「いいからいいから。」
「･･･ああ、まだいたぞ。書類作るようで、大変だ･･･とか何とか言ってたぞ。」
「みんな帰ったよな？」
「ああ。俺がいっつも最後だからな。」
「よし。」
俺が小さくガッツポーズを決めると、勇治は再び困惑した表情をした。
「勇治。俺ちょっと教室でとってくる物あるから、先、昇降口行っててくれないか？」
「ああ。分かった。･･･じゃあな、健也。」
「また明日。」
健也がそう返すと、勇治は足音を残して食堂を後にしていった。
「英は行かないのか？」
「まあまあ、直に出てくさ。ところで、おぬしに朗報だ。」
「？」
健也は小鳥のように首をかしげた。
･･････いや、この大男には小鳥という表現は合わないか。
「憐先生がまだ美術室で仕事してる。」
「まだ、仕事してるのか？」
「ああ、さっき勇治に聞いたから、間違いないと思う。
仕事で参ってるはずだから、あったかいレモンティーでも差し入れてやったらどうだ？」
そう言って、健也の肩を叩く。
「また、明日な。」
「また明日。･･･でも、また貸しができたなぁ･･･」
健也は、悔しそうな顔をしてたが、なんとなく嬉しそうだった。
俺はそんな健也に手をふって、食堂から出た。

「早かったな。」
「ああ。」
昇降口に行くと、勇治が下駄箱に寄りかかって待っていた。
「そういえば、勇治と帰るのって何日ぶりだっけ？」
「さあ？一週間か二週間か･･･」
話をしながら、昇降口を出る。
「同じ、部活だというのに珍しい事もあるものですなあ。」
「お前が、部活にこないからだろ。」
「いやいや、いろいろとありましてな。」
そう言うと、勇治は怪訝そうな顔をした。
「どうせ家帰って、寝るためだろ。」
「そのとおり。」
図星を突かれたからには、開き直るのが一番。
「いや、そこで開き直られてもな･･･。」
「人生開き直りが一番だ。」
「なんか、違うような気がするんだが。」
「気にするな。」
「･･･」
「気にするな。」
「･･･はぁ。」
勇治がため息をついた。
呆れてものが言えないとは、このことだろう。
まあ、俺と勇治はいっつもこんな感じだし。
校門から学校外に出て、下り勾配約5％、200m程のところに寮はある。
勇治はそこで暮らしているらしい。
あと、玲菜も生息しているみたいで、下手に近づくと、かみつかれるから注意が必要だ。
「学校までこんなに近いと、便利だよなあ。」
いつもいつも、この寮を見るたびに思っていた。
月1万円もしないで暮らせて、更に学校が近いのだから、遅刻主義者の俺に言わせれば、贅沢極まりない物件だ。
「遅刻寸前でも滑り込みが効くから楽には楽だ。」
勇治は夕日を浴びた学校と、今から帰る寮を交互に見ながらそう言った。
「ところで、何で最近英は遅刻してないんだ？･･･去年はよく先生に叩かれてたろ。」
心底不思議そうに聞いてくる。
全く失礼な奴だ。
そんなに遅刻してたか？
「美咲が来るから、起きるようなんだよ。」
「？」
首を捻っているところからすると、どうやら勇治には説明不足らしい。
「美咲がだな、俺の部屋まで上がりこんでくるから、起きないとろくな事が無いんだよ。」
「今になっても、起こされてるのか？」
「まことに遺憾ながら･･････」
申し訳なくなって、誰にでもなく頭を下げる。
今朝は、美咲に起こされなかったが、日曜日のいつだかは、俺の部屋の椅子に座って優雅に本を読んでいた事もあった。
流石に、あの時は驚いて、飛び起きてしまった。
その後、美咲は俺の反応を見て、不満そうな顔をしていたが、大した問題ではないと思う。
しかし、高一の冬休みあたりから、起しに来る事が多くなったから、多分おふくろが美咲にてこ入れでもしたんだろう。
恨むぞ。
まあ、あいつのおかげで遅刻しなくて済んでるのだからその点については、感謝しても感謝しきれない。
「まあ、美咲ちゃんもよくお前の事捨てないものだな。」
「全くだ。」
勇治の声には同情の色が混じっていた。
誰に対してだかはよく分からないが。
「じゃあ、･･･」
寮の前にきたところで、勇治が立ち止まった。
「･･･この辺で失礼するよ。」
「また明日な。」
「じゃ。」
右手を上げてそう言うと、勇治は寮の自動ドアをくぐって行った。
色温度が低い、赤っぽい照明が、なんともホテルっぽい。
「俺も引っ越すかな。」
引っ越す気なんかさらさら無いのに、言ってみた。
さて、まだ5時を少し過ぎたばかりだ。家に帰るのは勿体無い。
街の方を眺めると、ちょうど電車が発車したところだった。
高校と寮が高いところ･･･標高50mぐらいの高台にあるので、街の様子が一望できるのだ。
･･･駅前の商店街でも見て回るか。
そう考えて、駅前に足を向けた。

駅前商店街は、帰宅ラッシュの為か、人で賑わっていた。
いつもより人が多いであろう通りを、駅前の本屋を目指す。
人波の中には、制服を着た人もみられる。
多分、電車通学の人たちだろう。
「いらっしゃいませ～」
本屋に入ると、いつもの如く威勢のいい声が響いた。
さてさて、専門書でも見てみるか。

夕日は既に沈み、所々街灯という人工的な光が辺りを包んでいる。
その緑色がかった街頭の下を、ビニール袋と鞄をぶら下げて歩く。
「･･･」
遠くで、ガタンガタンと電車の走る音がした。
そういえば、健也あの後どうなったかな。
明日辺りにでも、事情聴取しとくか。
「ただいま～」
靴を脱いでから、リビングのドアを開ける。
「お？」
リビングに入ると、両親と美咲の姿が。
3人とも、ソファーに座っていて、まるで家族会議だ。
「ん～･･･なんで美咲がいるのかな？」
「まあまあ。」
右手で座れとジェスチャーをしている。
「なんだなんだ？」
鞄とビニール袋をテーブルにおいて、俺も美咲の隣りに座る。
親父とお袋は反対側のソファーになんともいえない表情で座っていて、なんとも不気味だ。
あのハイテンション親父が･･･。
「実は、急な話なんだが･･･」
親父は押し黙ったように話し始めた。
そのいつもとは違う雰囲気のせいで、まるで先が読めない。
「静岡の製品開発部に出張が決まった。」
親父が製品開発部だと!?
「お･･･お、す、凄っ！製品開発部だろ？親父いっつも行きたいって言ってたじゃん。」
「というわけで、母さんも一緒に来てもらう事になった。」
「は!?」
あまりの急な展開で、どうリアクションを取ればいいのか分からない。
母さんも引っ張ってくのか？
「何ヶ月ぐらい行く予定なんだ？」
「最低でも半年だ。･･･開発の状況にもよるが、大体8，9ヶ月と考えておいてくれ。」
親父はそう言って、一つの封筒を差し出してきた。
「･･･」
黙ってそれを受け取り、封の空いた封筒から紙を取り出す。
･･･なになに･･･出張任命書？
『刈谷英樹殿、貴殿の技術力及び知識力は他の社員より突出してるという事により、
静岡工場製品開発部への出張を命じる。
職務は当工場で蓄積された技術提供及び、製品開発となっている。
貴殿には、電子回路の設計をしてもらいたい。
期間は、当社で開発されている、新型光学センサー(HSS-T7a)の実用化のめどが立つまでである。
また、活躍しだいでは、転勤も考えているので、その点も留意していただきたい。
詳細については、別紙を参照のこと。･･･工場社長堀井敏郎』
「･･･」
紙を見つめたまま、また固まってしまった。
まさか、親父がここまで飛躍を遂げていたとは･･･仕事の事についてめったに話さない親父だったから、
全然分からなかった。
「でも、どうすんだ？母さんも行くんだろ？」
「そういう事になるわね。」
母さんは顔色一つ変えず言った。
むしろ、出世(？)が決まって、嬉しそうにも見える。
「そうか。」
親父が出世するのは嬉しい事だし、別にかまわないが、この家はどうするんだ？
料理や家事がまともに出来ない俺に、9ヶ月も住めというのか？
いや、もっとも問題はそれだけではないが。
「お前なら分かるはずだ。」
親父は腕を組むと、ずうずうしい態度をとった。
「･･･」
ちらりと、左隣を見る。
まさか、美咲に世話をさせようなんて考えてるんじゃないだろうな？
でも、俺の隣りにいるこの美咲は一体どう説明すればいいんだ？
美咲の両親と、俺の両親は昔からの親友と言うし、隣りの家に上がりこませる事ぐらい大した事じゃないのか？
ふと、美咲を見ると、不意に目が合った。
「･･･」
「あっ･･･」
なんとなくバツが悪くて目をそらしてしまう。
「その顔だと、分かってくれたようだな。」
「いや、でもな･･･いくら幼馴染で、親が親友だとはいえ、そこまでさせる事は無いだろ。」
口調がきつくなってしまう。
流石に、美咲にそんな事まで任せるわけには行かない。
このバカな俺にも、プライドと言うものが少なからずある。
「美咲だって迷惑だろ？美咲には美咲の家があるんだし。それに･･･」
「私は･･･」
美咲は、俺の言葉を強引にふさいだ。
その強い口調に、黙ってしまう。
「私は、･･･問題ないよ。」
「へ？」
何かを吹っ切ったような美咲の反応に、変な声が出てしまった。
今、なんと言った？
問題ないだと？･･･まさか、美咲が承諾するとは･･･
いや、でも･･･なぁ･･･。
「別に、全てを美咲ちゃんに任せるわけじゃないぞ。ただ、たまにでいいから、お前の様子を見てくれと･･･そういうことだ。」
「･･･」
「美咲ちゃんも悪いわね。」
「いえいえ。」
美咲は笑みを浮かべながら手を振った。
多分、否定の意味を指しているのだろう。
思わず、額を押さえてしまう。
「いつからなんだ？」
「来週の木曜日からだ。」
すると、29日からか･･･。
それもまたずいぶんと急な話だな。
「向こうには、社員寮があるから、そこに住むことになる。」
「連休には帰ってくるから。」
「実を言うと、お前も連れて行きたいんだが、今は2年で大切な時期だろ。」
黙って頷く。
「だから、お前にはここにいてもらうことにした。」
親父はそう言うと、冷めて湯気も上がっていないお茶を一気に飲み上げた。
「･･･」
「･･･」
「･･･」
「･･･」
沈黙が辺りを包む。
聞こえるのは、アナログ時計が奏でるカチカチという規則的な音。
みんな、俺の返事を待っているのか？
しかし、如何せん急な話だ。
額を手で押さえて考えてみる。
親父とお袋は9ヶ月も静岡に行っていて、その間俺は美咲の助けを借りつつ、ここに居ろと。
つまり、そういうことだな。
美咲はいいと言っているが･･･
「･･･」
額にだんだんとしわが寄ってくる。
でも、どっちにしろ親父の出張を止める事は出来ない。
「ああ、いいよ。親父の出世を止める事は出来ない。」
まあ、少し不安はあるが、しばらくは一人暮らしが出来るからいいか。
そういうことにしておこう。

「美咲･･･本当に悪いな。」
玄関先まで、美咲を送ったあとで、もう一度同じ言葉を繰り返した。
手を合わせて頭を下げる。
「いいんだよ。だって、英君、親がいないと家、ゴミ屋敷にするでしょ？」
「･･･否定は出来んが･･･」
眉をひそめる。
「でしょ？･･･だから、私がお手伝いをしてあげるの。」
「･･･」
美咲には頭が上がらない。
本当に感謝しても感謝しきれない。
この代償は、いずれか払わなくてはならないと思う。
「くすっ。」
「何を笑う。」
考え事をしてると、美咲が急に笑った。
何が可笑しい。
「だって英君、めずらしく本当にすまなそうな顔してるから。」
そう言ってから美咲は手を口に当てて、再びくすくすと笑った。
「･･･」
俺には神妙な面持ちとか緊張した面持ちとかが合わんのか？
ちょっと、心配になる。
「じゃあ、また明日ね。」
「ああ。」
美咲は最後にもう一度にこっと笑うと、とんとんと軽やかな足取りで、家の中に入っていった。
「･･･」

自分のベットの中に入ってからも、家に帰ってからの出来事がまるで走馬灯のように繰り返された。
何故か知らないが、初めから最後までの会話を全て思い出すことが出来る。
「出張か･･･」
まさか、一人暮らしをする羽目になるとは思ってもいなかった。
これから、俺は大丈夫だろうか。
家の中をしっかり管理できるか？
･･･いや、分からない。でも、分からなくても努力するほか無い。
「あ～～。」
大きな欠伸が出た。
心配事が多いのは確かだが、美咲が困った時は手を貸してくれるというし･･･まあなんとかなるだろ。
そう考えたら、一気に睡魔が襲ってきて、俺は夢の中に放り出された。

04/02/16

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