いつもの微笑み



そんな急に、妹ができる、と言われても、シックリこない。
しかも、義理。
しかも、15歳で一つ下のお年頃。
相手としても、急に兄さんができる、と言われても迷惑なものだろう。
「んな、急に言われても分からん」
そう言うと、母さんは困ったように顔をしかめた。
「一人っ子なんだから、兄妹ができるのも悪くないと思うんだけど」
「・・・上手く、付き合えるかな・・・」
「大丈夫だと思うわよ」
その自信は一体どこからくるものなんだろう。
・・・
・・・・・・


そんなことを律儀に考えてたのが、2年ぐらい前。
今考えてみると、その考えはまったく無駄骨だった。
自分でも、頭を抱えていたのがバカに思える。
何でかと言えば、もう、普通の兄妹のように付き合っているから。
「あ、お兄ちゃん。今日の夕食なんだけど・・・なにがいいかな?」
リビングでテレビを見てると、紗枝がそう声をかけてきた。
振り返り、紗枝を見る。
「夕飯?」
「うん。どんなのでもいいよ。買ってくるから。どっちみち、材料切れちゃってるし」
そう言われて、冷蔵庫の中なにも入ってなかった、というのを思い出した。
何も入っていない、というのは嘘だけど、バターとマーガリン、つゆに要冷蔵の調味料。
麦茶に、たまご2個、母さんの実家から届いたきゅうりの漬物・・・ぐらいじゃ、夕飯は作れまい。
作れたら、人間じゃないな。
「別に何でもいいんだけど。好き嫌いあるほうじゃないし」
そう答えると、紗枝は、はぁ、とため息をついた。
「それが困るんだけどなぁ」
いや、しかし、好きなものも嫌いなものもあるほうじゃないんだから、仕方が無いじゃないか。
「紗枝が好きなのでいいよ」
「闇鍋でいい?」
にこっ、と笑みを浮かべる紗枝。
どことなく、目が笑ってない気もしないではないけど、気にしないでおこう。
闇鍋・・・好きなのか?紗枝は。
「・・・」
「・・・」
沈黙が流れる。
にこにこと目の笑っていない笑みを浮かべる紗枝と、冷や汗を吹きたらしているその兄。
ある意味、恐ろしい光景ではある。
「じゃ、じゃあ、夏だし、ざるそばでいいよ」
「それでいいの?」
ああ、と肯く。
紗枝は、ざるそば、とメモ用紙に書き込み、再びこっちに顔を向けた。
「ざるそば・・・ね。あとは無い?」
「今のところは」
「何も無いの?今日、スーパー特売日なのに」
「といってもな・・・」
視線を中に泳がせて、足りないものは、と考えてみる。
俺はあまり料理するほうじゃないから、何が足りない、とかよく分からない。
無くなるもの、無くなるもの・・・無くなりそうなもの・・・
「米か・・・」
たしかあと数合でなくなるはず。
米、炊くのは俺の仕事だから、米についてはすぐ分かる。
「だったらついでに米でも買っておくか?買い物行くの付き合ってやるから」
「うん。じゃあ、お願いね。私、着替えてくるから」
紗枝はそう言うと、リビングから出て行った。


俺と紗枝が出会ったのは2年前だった。
あまりに突然だった事を今でも覚えている。
いつものように部活から疲れて帰ってくると、いつもは母さんしかいないはずのリビングに、女の子、知らないおじさん、そして母さんがいた。
スーツを着ていて、頭がやわらかそうなおじさんと、一目見て可愛いと思える女の子が印象的だった。
お客さんかぁ、と思っていてあいさつして、自分の部屋に入ろうとすると、母さんに呼び止められた。
ちょっと座って、と言われ、頭が追いつく前に、再婚することになったどうだこうだ、と聞かされた。
一瞬、何が起こったのかわからなかったけれど、母さんが再婚するかもしれない、とほのめかすように言っていたのと、女手一つで育ててくれた母さんの大変さが分かっていたから、少しでも軽くなるなら再婚しても悪くないと思って、俺は、いいんじゃないのか?、と答えた。


俺の本当の親父は、俺が3歳の頃に死んでしまったらしい。
らしい、というのも、俺が実際見たわけでもないから。
それに、親父の記憶というのは、ほとんど無い。
黒い服を着た人がたくさん集まってきて、お父さんが死んだ、と言うことを聞かされた。
そのときは、ぜんぜんそんな実感は無くて、いつか戻ってくると思っていた。
そして、今でもそんな気がする。


近くの公園から聞こえてくる、ヒグラシの鳴き声を聞きながら、二人肩を並べて、スーパーに向かって歩く。
「セミの鳴き声を聞きながら、散歩する・・・というのもいいもんだな」
茜色に染まっている空を見上げて、言った。
「そうだね。私も好きだよ。こういうの」
「絵に残したい光景だよ」
「描いてみたら?」
「出来たら、してると思うぞ」
「それもそうだね」
紗枝はそう言うと、くす、と口元に手を当てて笑った。
「紗枝ー」
「?」
紗枝、と呼んだのは俺じゃない。
声のしたほうを向くと、どこかで見たことのあるような女の子がぱたぱたと走りよってきた。
「あれー、こんな時間にどうしたの?」
「うん。ちょっと、買い物にね」
あ、そうか、どこかで見たことがあるな、と思ったら、紗枝のクラスメイトか。
「へぇ・・・ん?」
納得したように肯いた女の子は、気がついたように俺のほうを見た。
そして、ははぁ、と納得したように紗枝を見る。
「彼氏?」
「何言うかなぁ、もう。兄さんだよ。私の」
「え〜なんだ。残念。せっかく紗枝にも春が来たと思ったんだけどなぁ」
がくっ、と肩を落とす女の子。
なんなんだ、おい。
「あ。始めまして、お兄さん。瀬名美代っていいます」
瀬名は、ぺこっ、と頭を下げた。
「よろしくな。俺は・・・」
「直也さん・・・ですよね」
「え?」
思わず、聞き返していた。
なんで、名前しってるんだろう。
「紗枝から聞いてますよ〜」
そう言った瀬名は、俺にだけ聞こえるように小声で言った。
「私の兄さんはなんでもできる・・・って」
じー、っと瀬名の顔を見つめ返すと、彼女は笑みを浮かべて、うんうん、と肯いた。
いや・・・なんか、嬉しい。
紗枝としても、兄さんがへなへなよりは、それなりにいいほうが恥ずかしくないだろうし、何でも出来る、とか言われると純粋に嬉しい。
頬肉が垂れそうになるのを理性をもって、それで抑える。
「・・・」
でも、それ以上に紗枝がクラスメイトにそんな事を言っていた、というのが意外だ。
何気に紗枝の顔を見てみる。
「ちょ、ちょっと、美代っ。な、何言ったの?」
二人の様子が変だと思ったのか、紗枝がついに反応した。
「いいえ、何も。ただ、紗枝がいつも言ってることを言っただけ〜」
おどけたよう笑みを浮かべて、瀬名さんは言った。
「へ、変なこと言ったんじゃないでしょうねっ」
「大丈夫、大丈夫。紗枝に悪いことは何も言ってないからさぁ」
「う〜・・・信じられないなぁ」
紗枝は肩を落とし、半信半疑のまなざしで、瀬名の顔を見た。
「まあまあ、気にすることじゃないって。じゃあね紗枝」
そう言った瀬名は、手を振りながらにこやかに走り去っていった。
「・・・」
なんというか、まるで、まめ台風。
でも、紗枝がそんな事言ってたとは。
期待を裏切らないような兄さんにならないとな。
あ〜、大変そう。


10kgの米袋2つ、2Lペットボトルの飲み物3本、さらに今晩の夕飯プラス、数日分の食料。
米袋と飲み物だけで、26kgだぞ。
その26kgがどうなってるかというと、俺の体にかかっている。
米二袋はなんとか片肩に担いで、ビニール袋に入ったペットボトル3本は右手に持つ。
米二袋は肩に担いでいるから、バランスさえ気にすれば大した事は無い。
ただ、問題はペットボトルの入ったビニール袋。
6kgもの荷重がビニール袋の取っ手にかかり、それがそのまま手にかかる。
だれしも経験はあると思うけど、手先が痛い・・・
いいトレーニングになるだろう、と自分を偽っても、偽りきれないこの痛さ。
「・・・大丈夫?」
紗枝が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「い、いや・・・大した事じゃない」
実を言うと思いっきり大した事なんだけど、紗枝に持たせるわけにはいかないじゃないか。
紗枝だって、両手がふさがってるし。
・・・
・・・・・・


「ただいまー」
「ただいま」
玄関を紗枝に開けてもらい、家の中に入った。
ただいま、を言ったところで、返事があるわけが無いのは分かっている。
住人が2人しかいないんだから。
リビングのテーブルの上に、肩から下ろした米を置き、ペットボトル入ったビニール袋をその隣に置く。
まるで肩の荷が下りたようだ、と例えとして使うけれど、まさにこの状況だろうな。
何気に、今までビニール袋を持っていた右手を見ると、案の定、指先が白っぽくなっていた。
びりびり、と手先がしびれだし、じわじわ、じわじわ、と波が押し寄せてくる。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
紗枝が心配そうに聞いてくる。
「ん?・・・まあ、大丈夫だ」
手を数回ほど握ったり開いたりして、問題の無いことを確認する。
まだ、痺れは残っているけど、じきに引くはずだ、そう悲観するものでもない。
うん、大丈夫だ。
「お兄ちゃんは・・・いつもそうやって無理してるんだからっ」
紗枝はそう言うと、強引に俺の右手を取り、手のひらを見た。
「あ〜あ・・・こんなにあとが付くまで持たなくていいのに・・・」
「紗枝に持たせるわけにはいかないからな」
紗枝は視線を手から俺の顔に移した。
なにか、もの言いたげな顔で見られる。
なに?
「・・・・・・変なとこで強引なんだから」
そう言った紗枝は、一瞬だけ優しい顔つきを見せたあと、背中を向けてキッチンに入っていった。


今晩の夕食は天ざると野菜炒め。
なんで天ざるになったかというと、紗枝が、ざるそばだけじゃ質素すぎるでしょ?、と言ったから。
それについては、俺も否定はしなかったので、天ざるとなった。
ちなみに、天ぷらを揚げたのは俺。
正直、美味く出来たかどうかは不安である。
「・・・」
出来はどうかと、一口、口に運んでみる。
サクッ、と音がして味がはじける。
ん〜・・・お、これはけっこういけそうだな。
我ながら、よく出来てる。
紗枝はどういう反応をするだろうか。
テーブルの反対側に座っている紗枝を見ると、紗枝がちょうど天ぷらを口に運んだところだった。
反応を固唾をのんで見守る。
「・・・あ、美味しい・・・」
ゆっくりと咀嚼して、飲み込んだ紗枝はつぶやくように言った。
「お、そうか。そりゃよかった」
「はぁ〜、なんでお兄ちゃんはそうなんでもできるの?」
「なんでもって・・・そりゃ、持ち上げすぎだろ」
天ぷらは、ただ単に、テレビでやってた、天ぷらの美味しい作り方、ってのを見て覚えてただけ。
こんなとこで役に立つとは思ってもいなかったけど。
「でも、そうやってすぐ覚えれるんだから」
「何言ってんだか。いいから早く食え」
「は〜い」


夕食後の片付けは俺の仕事。
皿を割らないように注意しながら、一枚一枚洗っていく。
といっても、数は微々たる程度。
紗枝は今、リビングでノートを開いて、なにやら勉強をしている。
ずいぶんと、熱心なものだ。
皿を洗ったあとは、風呂掃除。
風呂掃除といっても、軽く磨く程度だから、10分もあれば終わる。
そして、給湯と書かれたボタンを一押しするだけ。
これで、数十分もたてば、風呂がしっかりと沸いている。
近代のテクノロジーというのは、ほんとにすばらしいもんだ。
そんな、変なことを考えながら、リビングに戻る。
「紗枝、先風呂入るか?」
「うん」
「じゃあ、俺、部屋にいるから上がったら言ってくれな」


自分の部屋に戻り、蛍光灯をつける。
俺の部屋は、自分で言うのもへんだけど、結構広い。
8畳あるためもあるだろうけど、勉強机を撤去したのが一番面積をとれた理由だ。
そのため、俺の部屋は第二のリビングになってしまっている。
ポットとか、カップとか、テーブルとか、小型冷蔵庫まで置いてある。
ちなみに、小型冷蔵庫はリサイクルショップに行って、格安で買ってきたものだ。
「さて・・・と」
俺も勉強しますか。
・・・
・・・・・・


しばらくすると、コンコン、とドアをノックする音がして、紗枝が部屋に入ってきた。
風呂上りのためか、頬を赤く上気させている。
セミロングの髪を背中で一つ束ねていて、すこし大きめのTシャツを着ている。
かなりラフな格好だ。
「今上がったよ。・・・あ、勉強してたんだ」
紗枝は、手元に開いているノートに気がついたようで、そう聞いてきた。
「まあな。課題は早めに終わらせ解いたほうがいいからよ」
「そうだね。私も勉強しなくちゃ・・・ねえ、飲み物もらっていい?」
「いいよ。入れといたから」
そう言うと、紗枝は冷蔵庫を開けて、今日買ったペットボトル入りのお茶を取り出し、ガラスのコップに注いだ。
それを、こくこく、と喉を鳴らせながら飲んでいる。
すらりと伸びる、白く、わずかに上気した首筋に思わずどきりとする。
「〜!・・・冷たくて美味しいっ。お兄ちゃんも飲む?」
「今はいいや。風呂上りにでも飲むよ」
ノートを、ぱたん、と閉じて、さっさとテーブルの上を片付ける。
「もう、止めちゃうの?」
「ああ、風呂入ってくら」


風呂に入ってから、自室にもどってくると、紗枝がテレビを見ながら、やたら熱心にノートをとっていた。
なにやってんだろ。
紗枝の斜め隣に座って、テレビを覗き込む。
『ここで、大切なのは、油の温度・・・』
「・・・」
天ぷらの作り方か?
「えーと、『油の温度は一定に・・・』と」
丁寧な文字が、すばやくノートに書かれていく。
急ぐと形が崩れる俺の文字とは大違いだ。
「なんだ、天ぷらの揚げ方の勉強してるのか?」
「うん。今度揚げるときは、お兄ちゃんが揚げたのよりもっと美味しく作れるようにね」
「じゃ、期待してるよ」
「まかせて、まかせて」
紗枝は、にこ、と笑みを浮かべると、再びテレビに顔を向けた。
さてと、邪魔しちゃ悪いし、風呂上りの一杯でも飲みますか。
冷蔵庫から、紗枝がさっき飲んでいたペットボトルを出して、コップに注ぐ。
なみなみと注いでから、一気にあおる。
火照った体を覚ますように、喉元から胃袋へ液体が流れ込む。
ん〜っ!風呂上り一杯。最高だ!
たかが、200円にも満たないお茶で最高だとは、ずいぶん安上がりだな、と自分でも思う。
まあでも、そういうのもいいんじゃないかな。


しばらく、紗枝と一緒に料理番組を見ていた。
番組が終わると、紗枝は、よし、と声を上げてにこやかに微笑んだ。
テレビが消えるのを見届けてから、紗枝に声をかける。
「飲み物飲むか?」
「〜・・・じゃ、少し貰うね」
少し考えた後、紗枝はそう言った。
2つのコップに飲み物を注いで、一つを紗枝に手渡す。
「ありがと」
紗枝はにこっ、と微笑んだ。


・・・
・・・・・・
「・・・ちゃん・・・お兄ちゃんっ」
ぐらぐらぐら、と体が揺さぶられる。
頼む、もうちょっとでいいから・・・寝させてくれ・・・
「う〜、あと2分・・・」
体をよじって、紗枝の攻撃から逃げる。
「ちょっとぉ、起きてよ〜、学校に遅れちゃうよ〜」
「・・・」
「お兄ちゃんってばぁ・・・」
紗枝の声がだんだん涙声になってくる。
「お兄ちゃん〜」
なんか、聞いているだけで痛々しく思え、これ以上寝ているのは気の毒に思える。
・・・すいません、もう起きます。
これ以上寝ていることをあきらめ、ガバッ、と体を起こすと、紗枝は驚いたように、きゃっ、と悲鳴を上げた。
「今、起きた」
そう言い、ささっと、ベットからはいでる。
クローゼットを開け、制服を引っ張り出すと、背中に視線を感じた。
「おい、着替え見てるつもりなのか?」
振り返ってそう言うと、紗枝はきょとんと目で俺を見つめ返してきた。
そして、数秒の間があった。
「え?あ、い、今出てくね」
紗枝は、はっとしたように目を開くと、みるみるうちに顔を赤に染め、慌てたようにわたわたと部屋から出て行った。
まったく、何なんだか。


紗枝が作ってくれた朝食を食べて、一緒に家を出た。
「ん〜、今日もいい天気だね」
紗枝が背筋を伸ばしながら、にこやかに言った。
じーじー、と騒ぐセミが、夏の雰囲気を色濃くかもし出している。
「そうだな。明日から夏休みだし」
「夏・・・かぁ、夏なんだよね。海・・・行きたいなぁ」
紗枝は何かを思い出すように、空を仰いだ。
俺が最後に海に行ったのは、中学1年のときだから、・・・5年間行ってないのか。
う〜む、海の深い色が懐かしい。
「まあ、海に行きたい、というのは俺も同感。紗枝は、最後に海に行ったのいつ?」
そう聞くと、紗枝は顎に人差し指を当てて、考える仕草をした。
「え〜っとね、・・・3,4年ぐらいかな?」
「紗枝もけっこう行ってないんだな。ちなみに俺は5年」
「じゃあ、海、行かない?」
紗枝は弾むような笑みを浮かべて、俺の顔を覗き込んできた。
顔が近くにあって、不意にどきりとした。
「と、となると、水着買いに行くようだな」
さすがに5年前の水着が今の体に合うわけないだろう。
中一の時の身長は、たしか150cmも無かったような気がする。
今は、175cmだから・・・いかに考えたって中一のときの水着を着るのは無理だ。
まさか、中学の体育の授業で使ったものを使うわけにはいかんし。
紗枝も、水着を新調するようだろう。
紗枝は一体どんな水着を選ぶんだろうか。
淡色で清楚な輝くような水着を選ぶかもしれないし、原色の派手な魅力的なものを選ぶかもしれない。
どちらでも、紗枝には合いそうな気がする。
紗枝はそれなりの胸をもっているみたいだし、露出度の高い水着でも問題は無いと思う。
・・・
・・・い、いや、そんな事は紗枝に任せておけばいいじゃないか。
頭を数回手で叩き、邪念を払う。
「ね、ねえ、水着選び、手伝ってくれる?」
「まあ、そのぐらいなら・・・って、はいぃ!?」
水着っ!?
ついさっきまで考えていたことを言われて、素っ頓狂な声が出た。
み、水着を選んでくれだと?
い、いいのか?そんなの俺に任せても。
視線が紗枝と合うと、紗枝は頬を赤くしして、すばやく視線逸らした。
「べ、別にダメならいいんだよ。ただ、選んでくれないかなぁ、と思って」
そ、それはつまり・・・女性水着のコーナーに入れと。
とても・・・どころか、かなり冷ややかな目で見られそうな気がする。
で、でも、紗枝の頼みだし。
魅力的な紗枝の水着姿が見れるのだったら、そのぐらいなんでもないだろう。
・・・
「いいよ。いいの選べるか分からないけど」
「う、うん。ありがとね。じゃあ、近いうちに買いに行こうね」
紗枝は、どことなく照れくさそう笑みを浮かべた。
「そうだな」


「放課後、ここで待っててね」
「ああ。分かった」
学校の昇降口でそんな会話をして紗枝と別れた。
紗枝は2年。俺は3年だ。
教室に入ると、教室はいつもよりざわめき立っていた。
まあ、明日から夏休みなのが、生徒達を騒がしくしている原因だろう。
落ち着かないのも分かる。
「おう、直也」
席に座ろうとすると、早速、声を掛けられた。
声の主は、悪友の小田裕樹。
中学の頃からのクラスメイト。
「なんだ?ずいぶんと機嫌がいいみたいだな」
席に座りながら、いつも以上に言葉が軽快な、裕樹に話しかけた。
すると、裕樹は隣の席に座った。
「そりゃな。だって明日から夏休みだぞ。騒ぐな、と言われるほうが無理じゃないか」
にやにやと、と楽しげに笑う裕樹。
テンション高いな。朝っぱらから。
疲れないのか?
「明日からは、毎日、海、海。海で魚取りだ!」
そう言って、ガッツポーズを見せる裕樹。
そうとう意気込んでいるみたいだ。
「まあでも、遊びすぎて、夏休み最終日に課題終わらせることになるなよ」
そう言うと、裕樹は一瞬、考えるように目を閉じた。
「それは・・・あるかもしれないさ。でも、自分の身を追い込むのがスリルでいいんじゃないか」
「・・・」
にやにやと笑いながら、そんな事を言ってくる。
・・・なんつー奴だ。
あー、でも、こういう奴に限って、将来、社長とかになってたりするんだよな。
「あ、そうそう。たまーにそっちの家に遊びに行くからさ。ちゃんともてなしてくれよ」
「毎日、海じゃなかったのか?」
顔をしかめて、裕樹の顔を見ると、彼はけろっとした顔をしていた。
「そのときの気分なのよ。こういうのは。気分、気分」
気分、という言葉を強調してくる。
「気分・・・ねぇ・・・」
呟きながら、何気なく窓の外を見てみる。
四角に囲まれた窓枠の外では、雲がゆっくりとしたペースで動いて、空が夏色に染まっている。
気分か。
気分で物事決められるとは、気楽でいいに違いない。
「あ、そうそう」
裕樹が閃いたように指をパチンと鳴らした。
視線を窓の外から、裕樹に戻す。
「夏休み中にさ、焼肉やらんか?」
「焼肉?」
なんで、焼肉よ?
一瞬だけ眉をひそめると、俺が何を考えてるのか分かったか、裕樹は続けた。
「夏といったら、庭先で焼肉だろ。やっぱり」
なのか?
でも、焼肉パーティしよう、と言われても、そのときの財布の中身にもよるしな。
"ぺらっぺらのすっかすか"だったりするかもしれないから、すぐには決められない。
「焼肉は確かにいいけど、金に余裕があったらな」
「じゃ、がんばって余裕を作ってくれ」
そう言うと、裕樹は手をぴらぴらと振り、廊下に出て行った。
何者だ?あいつ。
もう、先生来るぞ。


朝のホームルームが終わった後にあるのは、授業収め式。
なんで、こう、学校というものは形式ばったものが好きなんだろうか。
校長先生の中途半端な長さの話を聞き、授業収め式は終わった。
教室に戻ってきて、ロングホームルームがあって、事故に注意しろだの、変なことをするなだの、
課題は期限までに提出しろだの、いろいろと担任に言われた。
どれもこれも小学生の頃から耳にタコが出来そうなほど聞いた、定番ばっかりだ。
まあ、これを聞けるのはあと冬休みの一回限りだと思うけど。
そんな事を考えながらいると、ロングホームルームはあっという間に終わった。
ロングホームルームが終わった後は、下校が待つのみ。
クラスはもうすでに人が引き始め、残っているのは俺を含めて数人程度。
黒板には誰が書いたのか知らないけど、『祝 夏休み』と赤いチョークで大きく書かれている。
「さてと・・・」
課題やら、読書感想文用の本やらが詰め込まれたかばんを、ぱんぱんと叩く。
しかし、なんで課題ってこんなに多いんだろう。
最後の夏休みになるんだから、もう少しぐらいゆっくりさせてもいいだろうに。
かばんを肩に担ぎ、席を立つ。
「じゃあな。みんな。また、夏休み明けに」
「おう、じゃな」
「あ、そうだそうだ、裕樹」
「ん?」
「明日、街に遊びに行かないか?」
「明日か?・・・ん〜・・・まあ、大丈夫だと思う」
予定は入ってないし。
「じゃ、明日の10時半にいつもの駅前で」
「ああ」
みんなの声を聞きながら、背中越しに片手を挙げて、教室をあとにした。
さてと、早く行くか。
紗枝が待ってるだろうし。


階段を下りてすぐ真ん前にある昇降口に着き、紗枝の姿を探す。
けれど、昇降口は人気が無く、がらんとしていて、紗枝はまだ来ていないようだった。
2年生の下駄箱前を見ても、紗枝の姿は見えない。
外靴はまだあるから、校舎内にはいるみたいだ。
来るの待ってるか。
一緒に帰る約束してたしな。
昇降口の端っこに置いてある自販機の前に立ち、100円玉ををいれ、ブレンドコーヒーのボタンを押す。
ゴトン、と音がして、紙パックのブレンドコーヒーが出てきた。
出てきたコーヒーを手に取り、靴を履き替え、昇降口の外に出る。
コーヒーにストローを挿して、早速飲んでみる。
ずずず、と吸うと、コーヒーの苦さの消された味が口の中に広がった。
正直、美味しいとはいえないと思う。
何気なく空を見上げると、ゴロゴロゴロ、と低音があたりに響いた。
「・・・ん?」
重く鉛色をした雲がこちらのほうに近づいてきている。
見るからに雨雲だ。
・・・雨降るなこれは。
そんな事を考えているうちに、雨雲は雷を伴いながら、みるみるうちに近づいてきて、ゴロロロ、と轟音をとどろかせる。
紗枝はまだ来ていない。
置いていくわけには行かないし、ここは待ってるしかないな。
「・・・」
・・・
しばらくすると、ざぁぁぁ、と強めの雨が降り出した。
地面から、もやがたちあがり、雨の匂いが辺りにたちこめる。
10,20分ぐらい待っても、雨は一向に収まる気配を見せない。
雷も、ほぼ一定の間隔でなり続けている。
クラスメイトの連中も、夕立のようにすぐ通り過ぎないことに気がつくと、濡れるのを覚悟で昇降口を飛び出していった。
また、ある奴は、天気予報を見ていたらしく、用意周到にも傘をさして出て行った。
あー、俺も紗枝も、傘、持ってきてないしな。
天気予報しっかり見ておくんだった。
失敗した、と思いながら空を見上げて、雲行きを見ていると、ピカッ、と再び雷が閃光を発した。
それから2秒ぐらいたって、ゴロゴロゴロ、と轟音が響く。
「梅雨明け・・・するのか」
雷がなれば梅雨が明ける、これは昔からよく言われることし、しかも今は梅雨明けしてもおかしくない時期だ。
梅雨が明ければ、真っ青な青空の盛夏が待っている。
そう考えると、不意にわくわくした。
「ご、ごめんっ。ま、待った?」
慌てたような声がした。
首をひねって右側を見ると、紗枝が不安そうな表情でドア口に立っていた。
「いや、大して待ってないよ」
腕時計をちらっとみると、待ち始めてから30分はたっていた。
「そ、そっか」
紗枝は安堵するように、ため息をついた。
「ごめんね遅れて。先生に手伝い頼まれてちゃって・・・」
頼まれたら断れないだろうしな。
紗枝が押しに弱いことぐらいよく分かってるつもりだ。
「いやいや、頼まれたなら仕方ないだろ。まあ、それよりこの雨をどうにかしないとな。傘持ってきてないだろ?」
紗枝が傘を持ってきてないのは分かっていたけど、再確認の為に聞く。
すると、紗枝は首を左右に振った。
「もう少し、待っててみたら?雨、あがるかもしれないよ」
「ならいいんだけど、多分これ梅雨前線だろ。通り抜けるには数時間かかるんじゃないか」
「・・・どうしよう?」
紗枝が不安そうな顔で見つめてくる。
「・・・走るわけにもいかないしな」
歩いて数分の距離とはいえ、こんな雨の中突っ走ったら、家に着くまでにずぶぬれになるのは目に見えてる。
そんな事をしたら、俺はいいとしても、紗枝は風邪をひいてしまうかもしれない。
「走ろうか」
「は?」
え?本気で走るつもりなのか?こんな雨の中。
「たまには、雨に打たれながら帰るのもいいよ。きっと」
紗枝は、にこっ、と無邪気な笑みを浮かべた。



バタンッ

わたわたとなだれ込むように玄関に入る。
「はぁ・・・はぁ・・・辛かった〜」
「まあ、全速だったからな」
案の定、予想通りの展開になった。
もう、上から下まで全部ずぶ濡れ。
下着を含めて、生きているのは多分無い。
もうここまで濡れたのだったら、別に走ってくる必要なんか無かったんじゃないか、と思う。
紗枝も、俺と同様で完全に濡れてる。
でも、ただ単に濡れているわけじゃない。
夏服である白のYシャツが濡れて、体に張り付き、真っ白な下着が透けて見える。
それが、いやらしく、色っぽく見える。
心臓が高く鳴り、生唾を飲み込みそうになる。
これが、水も滴るなんとやら、なんだろうか。
「あー、ひでぇ雨だったな」
できるだけ、見ないように、意識しないように、他のものに考えを移す。
家の中に入っても、雨が屋根を打ちつける音が耳に入ってくる。
「うん・・・ちょっと甘く見てたかも」
紗枝は苦笑するようにはにかんだ。
「でも、雨に打たれるって久しぶり」
「ん〜、たしかに、言われてみればそうかもな」
最近は雨なんか降ると、あー、めんど、ぐらいにしか思わなかったし。
さて、玄関なんかでボーっとしてないで、シャワーでも浴びて、なんとかしたほうがいいけど、
全身ずぶ濡れのままで歩くと、フローリングがすさまじい状態になるので、まず、上着を脱ぐ。
一人しかいないなら、ズボンも脱いで上がるところだけど、紗枝がいる手前それは出来ない。
上着を絞ると、じゃばばば、と滝のように水が流れ落ちた。
全部で一体、何リッターぐらい背負い込んでるんだろう、とか考えた。
「今、タオル持ってくるから待ってろ」
洗面所にある、タオルを3枚ほど持ってきて、紗枝に手渡す。
紗枝はそれを受け取ると、頭を拭き始めた。
「先にシャワーでも浴びとけな。風邪引く前に」
そう言うと、紗枝は髪を拭くのを止めて、俺の顔を見た。
「でも、お兄ちゃんは?」
「バカは風邪引かないんだよ」
バカは風邪を引かない、という話が本当か嘘か、という事は置いておいても、男より女性のほうがよっぽど華奢なはず。
風邪だって、ひきやすいはずだ。
「お兄ちゃんが先でいいよ」
こいつ、なかなかしぶといな。
「いいか?俺はこのぐらいの雨、大丈夫なんだよ」
そう言って、紗枝の肩を手を載せる。
「え?」
紗枝の華奢な体は案の定、冷え切っていて、細かく震えていた。
「やっぱり震えてるじゃないか。風邪引く前に早く入っとけ」
「う、うん」
紗枝はうつむいて、やっと首を縦に振った。


・・・
・・・・・・
「くちゅん・・・」
紗枝がベットの上で、小さくくしゃみをした。
「なんというか、期待を裏切らないやつだな」
しかも、夏休み初日から風邪引きあがって。
「私って・・・バカだったのかなぁ」
紗枝は苦笑した。
「何言ってんだ。引くときは引くんだよ、風邪ってのはな。いいから、寝てろ」
「ご、ごめんね」
紗枝はすまなそうに目を伏せた。
今日の朝、いつもの時間になっても紗枝が起き上がってこなかったので、何かあったのか、と思いながらリビングで待っていると、頬を赤く染めた紗枝が、ふらふらしながらリビングに入ってきた。
明らかに様子がおかしかったので、額に手を当ててみると、やっぱり熱があった。

ピピピピ・・・ピピピピ

体温計が測定完了を告げる電子音を響かせた。
紗枝から体温計を受け取り、液晶ディスプレイを見る。
「さんじゅう・・・7度8分・・・だと」
微熱と言うのか言わないのか、微妙な数値だ。
まあ、高熱、と言う分類ではないと思うので、ゆっくりしてれば明日には収まっているだろう。
「今日はゆっくり休んどけ。無理して倒れられると困るからな」
紗枝はだまってこくん、と首を振った。
「腹、減ってるか?減ってたらなんか作るけど」
「ううん、今はいいよ」
「そうか。俺は下で掃除してるから、何かあったら呼べな」
そう言うと、紗枝は柔らかい笑みを浮かべて、うん、と肯いた。


紗枝の部屋から出て、階段を下りる。
昨日から、なんか顔が赤いな、と思ってたけど、やっぱり熱上げてたのか。
気がつかなかった・・・
「さて・・・掃除機だけでもかけてしまうか」


一通り掃除機をかけたあと、ふと、時計を見ると、9時半を少し回った頃だった。
あ、そういえば、裕樹と遊ぶ約束してたったな。
・・・断るしかないだろ、今は。
重症ではないけれど、紗枝を見捨てるわけには行かない。
掃除機を物置スペースに突っ込んだ後、電話を取った。
いままで何度掛けただろう番号を押す。
「・・・」
『はい、もしもし?』
数回ほどコール音がなった後、眠そうな声が聞こえてきた。
多分、寝てたな。
「裕樹か。悪いけど今日、遊べなくなった」
『あ?』
「だから、遊べなくなった」
『何でまた』
「紗枝が熱出してね」
『ふうん・・・妹思いなんだな』
「・・・なんと言ったらいいか」
『だったら、仕方がないわな。じゃ、また今度と言う事で』
「申し訳ない」
『なに、大した事じゃないさ』
「じゃな」
・・・カチャ、と受話器を元の位置に戻す。
なんで10時半という中途半端な時間に約束を引っ張ってきたかと思ったら、自分が起きれないだけじゃないのか?
事実、今の電話なんかかなり眠たそうだったし。
「・・・」
ま、いいか。
「?」
ふと、電話機から顔を上げると、紗枝がリビングの入り口から、何かもの言いたげな顔でこっちを見ていた。
「友達と・・・約束してたの?」
なんだ、聞かれてたのか。
「まあ・・・な。大した約束じゃないけど」
あいまいに言葉を濁す。
どうせ、街の中歩き回って、CDか雑誌買う程度だし、日にちぐらいなら、1ヶ月以上ある夏休みのどこへでも回せる。
「それより、大丈夫なのか?起き上がって」
「うん、少しぐらいなら大丈夫みたい」
そう言って、足を踏み出すものの、紗枝はふら、と頼りなくふらついた。
慌てて、抱きしめるように体を支える。
「お、おい、無理するなよ」
「う、うん・・・ちょっと、飲み物欲しいかなぁ、って思ったから」
腕の中で紗枝が苦笑した。
倒れそうになったから、無意識のうちに抱きしめてたけど、よく考えたら、パジャマ姿の紗枝が腕の中にいる。
しかも、下着をつけていないらしく、その・・・なんと言うか、二つの感触がダイレクトに・・・
くっ・・・!
この体勢でいると大変なことになりそうだったので、そっと紗枝を放す。
「何か持ってくから、寝てろな」
「うん」
「階段でこけるなよ」
「大丈夫だよ、そのぐらい」
紗枝は大丈夫、と言う意味でなのか、にこっ、と笑みを浮かべたけれど、手を離すとまたふらついて、ドアに寄りかかった。
「ぜんぜん大丈夫じゃないな」
「ご、ごめん」
背中と膝下に腕を入れて、ひょいっと抱き上げる。
俗に言う、お姫様だっこというやつ。
「お、お兄ちゃんっ」
紗枝は慌てたように体をよじった。
腕に無理な力がかかり、落としてしまいそうになる。
「ば、ばか、危ないだろ。大人しくしてろ」
「・・・」
そう言うと、紗枝は体をよじるのを止めた。
紗枝は、思ってたよりも軽かった。
一般並みの筋力の俺でも簡単に持ち上がる。
紗枝を見ると、紗枝は顔を真っ赤にして視線をそらしてしまった。
いつも以上に顔が赤のは、熱をだしているためだろうか。
それとも、恥ずかしがってるからだろうか。
階段を踏み外さないように確実に上る。
すると、紗枝がおずおずと聞いてきた。
「ね、ねえ・・・重くない?」
「ん?全然」
紗枝の足が壁にぶつからないように階段を上りきり、紗枝の部屋に入った。
ベットに紗枝を横たわらせ、布団をかぶせる。
すると、紗枝は恥ずかしそうに目元まで布団をひっぱり上げた。
「今、飲み物持ってくるから、待ってな」
布団の中に入った紗枝は、頬を赤く染めて、躊躇いがちに肯いた。


昼食頃になって自分の腹時計が鳴り出すと、紗枝もお腹が減ってると思い、雑炊を作った。
記憶の糸を手繰りながらの作業だったけど、それなりのものはできたと思う。
「紗枝ー、入るぞ・・・」
返事を聞くのもそこそこに、部屋に入る。
「あ、お兄ちゃん・・・」
紗枝は俺の顔を見るなり、そう言い、ベットからゆっくりと体を起こした。
「具合は?」
「よくはなったかも」
かも、か。
「お腹すいてるかな、と思ってさ、一応雑炊作ってきたよ」
「え?・・・お兄ちゃんが作ったの?」
紗枝が驚いたように目を開らく。
ま、驚くのも無理ないか。あんまり料理作らないしなぁ。
「まあ、一応は」
本当にカタチだけなので、返事を濁す。
「食べるか?」
「うん」


・・・
・・・・・・
「味のほうは如何?」
紗枝が雑炊の一口目を飲み込んだところで、聞いてみた。
いや、だってそりゃあ、気になったから。
すると、紗枝は、はぁ、と呆れたようにため息をつき、俺を見た。
「もう、なんでお兄ちゃんは、こう、美味しく作れるかなぁ」
「美味しいと思うのは、紗枝の体が栄養を取りたがってるからだろ」
「そうかなぁ?」
「そうだよ」
適当に断言する。
「でも、ごめんね」
「?」
「迷惑掛けて・・・」
そう言った紗枝は、しおれた花ようになって、自分の手元にあるお椀を見た。
「友達との約束もキャンセルしたんでしょ?」
「まあ、したにはしたけどな。大した用事でもないし、俺的には、紗枝のほうがかなり重要」
「・・・・・・」
紗枝はゆっくり顔を上げると、やさしい顔つきになった。
「・・・ありがと」


一晩明けると、紗枝の体温も平熱まで戻り、いつも通りのリズムに戻った。
ちなみに、いつも通り、というのは、紗枝が決まった時間に起こしに来るから。
夏休みに入ったというのに、だらけた生活ができないのはそれはそれで悲しい。
ま、だらけてると、夏休み明けに泣きを見るので、規則正しい生活を送るのも悪くは無いと思う。
そんなある日の事・・・


「・・・ねぇ、ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
リビングで夏休みの課題を片付けていると、紗枝が声をかけてきた。
「勉強してたんだ」
「まあ、勉強といえば勉強かもな」
教科書開いて、問題解いているのを見れば、勉強に見えるかもしれないけれど、
機械的に問題を解いているので、頭の中にちゃんと入っているかはまったく不明だ。
時計を見ると、1時間ほど勉強をやっていたことに気がついた。
教科書とノートを畳んで、思いっきり背筋を伸ばす。
「ん〜」
「もしかして、邪魔しちゃったかな?」
俺の表情を伺うように、紗枝が言った。
「いやいや、ちょうど、休憩しようと思ってたとこ」
「そっか、よかった」
安心したようにそう言った紗枝は、ソファーに座っている俺のすぐ隣に腰を下ろした。
そして、ぺらぺらと数学の問題集をめくり始める。
「む、難しそうな問題だね」
「数学は手順を踏まえないと分からないからな。来年は紗枝もこれ、やることになるしな」
「うー、私にできるかなぁ」
「紗枝なら大丈夫だろ」
難しそうな表情をして、再び問題集を見始める。
そして、いったん閉じたと思うと、また開き、うー、と唸り始めた。
その仕草が、可愛らしい。
ふと、紗枝との距離がほとんど離れていないことに気がついた。
それこそ、ほんのちょっとしか離れてない。
身じろぎすれば、紗枝と触れてしまいそうだ。
紗枝の顔がやけに近くにあるように感じる。
そのことに気がつくと、不意に、心臓がどくどく、と鳴り始めた。
なんでどきどきしてんだよ。
たしかに、紗枝は可愛いと思うし、俺の好みといえば好みだ。
俺、紗枝のこと一体どう思ってんだろ・・・・・・
・・・
「・・・お兄ちゃん?どうしたの?」
「え?あ?」
どうやら、知らず知らずのうちに紗枝を見つめていたらしい。
「ん、いや、ちょっとな」
あいまいに言葉を濁す。
「あ、そうだ、お兄ちゃん。来週、海に行かない?」
「海?」
「うん。そろそろ行きたいなぁ、って思って」
「海か・・・天気よかったら行くか」
予定は今のところ何も入ってないし。
「だからね・・・あの、水着買うようでしょ?」
「そういえば、そうだよな。・・・ん〜・・・今から買いに行くか?」
ちょうど手が空いたと事だし、それに、この前、紗枝とも話したような気がするけど、5年前の水着なんか着れん。
というか、どっかに行ってしまって、手元に無いし。
「でね、買いに行くんだったら、お兄ちゃんに・・・選んでもらえないかなぁ・・・って」
上目使いで、こちらの様子を伺うように聞いてくる。
そ、そういえば、この前もそんな事言ってたな。
それに対して俺は、いい、って言ったような気がする。
「・・・いいよ。約束してたしな」
「ありがとうね」


・・・しかし、なんで紗枝の奴、俺に頼むかな。
友達の瀬名に頼んだほうが確実だと思うんだけど。
まあ、紗枝が頼むって言ってるんだから、いいか。


十分ほど歩いて、街にでた。
ちょっとしか、歩いていないつもりだったけれど、額に薄く汗が浮いている。
遠くの道路を見ると、アスファルトが蜃気楼を作っていた。
歩きじゃなくて、車とか、自転車とかを使えばよかった。
今更なんだかんだ言っても、意味は無いのだけれども。
「早いとこ、店に入るか」
「そうだね」


店・・・言い方を変えるなら、百貨店。さらに言い方を変えるなら、デパート。
学校からも近いこのデパートは、放課後になると結構な数の生徒でにぎわう。
自分もよく利用しているし、紗枝もよく利用しているはずだ。
エスカレーターで、上の階に上がり、スポーツ用品店に入った。
季節が季節、と言うこともあり、男性用も女性用も、色とりどりの水着が陳列されている。
「ん〜・・・」
自分の水着はちゃちゃっと選んでしまい、会計を済ませる。
なに、男の水着なんて、どれも華やかさなんてあるもんじゃないし、考えて選んだところで大して変わらないからな。
緊張しながらも、女性水着のコーナーで紗枝の水着を見て回る。
一体、どんな顔をして選べばいいのかが分からない。
にやにやしながら選ぶのも、卑下た男と思われるのがおちだし、だからといって、顔色一つ買えず選ぶのもどうかと思う。
客が少ないのがせめてもの救いだ。
そんな事を考えている俺の前で、紗枝は気になったものをいろいろと手にとって品定めをしている。
「こんなのはどうかな?似合う?」
紗枝がそう言って、こちらに見せてよこしたのは、ワンピースタイプで淡色の水着。
「ん〜・・・」
首をひねって考えてみる。
似合うか似合わないか、と言われれば、それは似合うと思うけれども、紗枝にはもうちょっと華やかな水着でもいいと思う。
「もうちょっと、派手なのでもいいんじゃないか?」
そう言って、商品ラックから一つの水着を取る。
「えっ?これ?」
手渡すと、紗枝はすこし驚いたような表情をした。
紗枝に手渡したのは、白のビキニ。
ビキニだけあって、露出度は高い。
強い日差しの下で着たら、さぞかし輝いて見えると思う。
「私に似合うかなぁ?」
疑問に充ちた表情で、水着を見つめている。
「試着できるだろ?着てみたらどうだ?」
「え?・・・あ、うん・・・」
紗枝は一瞬だけ戸惑うような表情をしたけれど、水着を持って、試着室に入っていった。
「・・・」
もどかしいような、恥ずかしいような微妙な時間が流れる。
自分は試着室の前に立っているわけだけど、中からは服の擦れる音が聞こえてくる。
決して、耳を澄ませている訳ではないし、店内にはBGMが掛かっているから、聞こえにくい状況ではあるけれど、無意識に意識がそっちに行ってしまう。
「・・・」
あ〜、俺もそろそろ重症だな。
・・・う〜。
しばらくすると、紗枝がカーテンをちょっとだけ開けて、顔をのぞかせた。
「き、着てみたよ」
紗枝の水着姿は一体、どんなものだろうか。
躊躇いがちにカーテンが開けられる。
「あ・・・」
思わず言葉が詰まった。
それは、あまりに紗枝似合っていたから。
水着姿の紗枝に目釘付けになる。
すらりと伸びた足、くびれたウエスト、ふくよかに見える胸。
いつもなら絶対に見えない部位が直接見える。
それがいやらしく、艶かしくて、ごくり、と無意識に唾を飲み込んでいた。
「ね、ねえ・・・ど、どうかな?似合ってる?」
頬をほのかに赤く染めた紗枝は、恥ずかしそうに聞いてきた。
「・・・す、すごく・・・似合ってるよ」
あまりに綺麗で、そう答えるのが精一杯だった。
本当によく似合っている。
お世辞なんかじゃない。
「じゃ、じゃあ、これにするね」
紗枝はそう言うと、自分の体を隠すようにすばやくカーテンの中に消えた。
「・・・」
カーテンが閉まっても、まぶたの裏に焼きついたように紗枝の水着姿が浮かび上がる。
「・・・」
すごいな。
ありとあらゆる意味で、そう思わざる終えなかった。


紗枝と買い物に行って数日後、何気なくテレビを見ていたのだけれども、天は何も問題なく海に行かせてはくれないらしい。
普段、ぼーっとして流すテレビを、じー、っと見つめる。
テレビから流れているのは、気象情報。
『―勢力の強い台風11号は、明日7月31日の午後6時 ごろ、日本列島に上陸する見込みです。台風の進路に当る恐れのある住民は今後の台風情報を―』
ほう、台風ね、台風。
935hpaか。
でかいと言えばでかいな。
まあ、大きいとは言っているけどどんなものか。
でも、この前の台風じゃ、屋根が飛ばされた、とかテレビで言ってたよな・・・
なんとなく気になり、窓の外を見ると、にわかに雲行きが怪しくなっていた。
夕方だから、暗くなるのは分かるけど、夏にしてはちょっと暗すぎる。
風も、どことなく強くなっているような気がする。
「・・・・・・紗枝ー、台風来るぞー」
和室で何かをやっている紗枝に聞こえるように声を上げる。
『え〜?何〜?』
「だからー、台風ー!」
『台風〜?』
「・・・」
って、俺は何をやってんだ。
こっちから行けばいいだろうが。
和室の入り口に立って、紗枝に声を掛ける。
「紗枝、台風11号が来るんだとさ」
紗枝は、アイロンを掛けた服を丁寧に畳んでいた。
「今回も植木を中に入れるだけで大丈夫かな?」
手を動かすのをいったん止めて、こちらを見てから、再び手を動かし始めた。
「まあ、一応はそれで良いんじゃないか。ただ、直撃受けそうな感じだからな」
「直撃するの?」
紗枝は、心配そうな顔をした。
「さあ、あくまで予想だから。でも、一応電灯とラジオぐらいは用意してたほうが良いかもな。非常用品って、あったっけか」
「非常用品だったら、階段下のボックスに入ってたはずだよ」
ん〜、用意周到だな、父さん。
それを覚えている紗枝もすごいが。
そんな事を考えていると、紗枝が畳まれた服の山を差し出してきた。
「はい、お兄ちゃんの分。これは私の」
「部屋に持っていっておけ、と。そういう訳か?」
「うん」
紗枝は、元気よく肯いて、にこっ、と笑みを浮かべた。


階段を上がりながら、目の前に積まれた服を見てみる。
俺のは下半分、紗枝のは上半分。
・・・紗枝って、白い下着好きなのかな?
俺は好きだけど。
「・・・」
・・・って、何考えてんだ、俺は。
紗枝は俺の妹だろ。
・・・義理だけど。
「・・・」
・・・義理・・・か。
義理・・・なんだよな。
・・・・・・
大体、紗枝はおかしい。
俺は18歳で、紗枝は17歳。
紗枝なんか、年頃の真っ只中なのに、無防備だし、パジャマ姿で部屋に入ってくるし、こう、下着が混じった服を運ばせるし。
信用されてんのか、されてないのか、よく分からん。
それとも、ただ単に男として見られてないだけか。
う〜む・・・
・・・・・・
・・・いや、考えるの止めた。
無限ループに陥ってしまう。
階段を上がって、2階にでる。
紗枝の部屋はドアが開いていて、ストッパーで閉まらないように止まっていた。
部屋に入ると、その瞬間、甘いような、そんな香りがした。
紗枝は香水とか使っているのだろうか、でも、使っているのを見たことはない。
もしかしたら、紗枝の素の香り・・・だろうか。
そう思うと、不意に、胸が高鳴って、くらっ、ときた。
ぐ、・・・なんでこんなに不思議な感情が湧いてくるんだろ。
整えられた机の上には、Diaryの文字が書かれた分厚い本がある。
・・・人の日記は読むものじゃないだろう。
そう考えて、机の上から目をそらし、ベットの上に紗枝の服を置いた。
早く、部屋から出たほうがいい。


カタカタカタカタ、と窓が鳴る音で目が覚めた。
枕元にある時計を見ると、7時半を指していた。
そろそろ、起きるか。
カーテンを開けて、外を見ると、空には鉛色の雲が広がってた。
とてもじゃないが、太陽が空に上がっているとは思えない。
「・・・」
いよいよ、来るか。
植木、倉庫に非難させとくか。


庭に出ると、やはり、風が強くなり始めていた。
面倒なことが起きなきゃ良いな、と思いながら、植木10数個を倉庫に非難させて、バケツなどの飛びそうなものを倉庫の中に突っ込んだ。
これで、一応大丈夫だと思う。
「よし」
再度飛びそうなものが無いことを確認して、家の中に入った。


夕方になると、風と雨が一段と強くなりだした。
トタン屋根に雨が当り、ザァァァ、と音を発している。
時折、家の柱が、ギシ、といやな音を立てる。
窓に雨が猛烈な勢いで当たり、にじみをつくり、透明ガラスが、曇りガラス状態になっている。
そろそろ、雨戸を引っ張り出さないと、物が飛んできたとき、窓ガラスが割れてしまう。
・・・
屋根・・・飛ばんよな?
いつも通りだと思ってたけど、予想以上でちょっと不安になる。
合羽を着込んで、外に出る準備をする。
ふと、背後をみると、紗枝が心配そうな顔で立っていた。
「大丈夫?怪我したりしないでね」
「なに、雨戸閉めるだけだ。2階はもう閉めてあるだろ?」
そう聞くと、紗枝は不安そうな顔を崩さないまま、うん、と肯いた。
家の中からでも雨戸は閉められないことは無いけど、それでは雨が大量に家の中に流れ込んでしまう。
「じゃ」
軍手を装備したところで、紗枝に片手を挙げて、外に飛び出した。
外に出たところで、玄関のドアを離すと風のせいで、バタンッ、と勢いよく閉まった。
予想以上に風が強い。
時折、強いな風が体に当り、体勢を崩しそうになる。
「ぐっ、甘く・・・見すぎてたな」
居間、和室、客室、と、順々に閉めたところで、家の中に戻った。
合羽のおかげで、濡れたのはスポーツサンダルだけ、という軽傷で済んだ。
「大丈夫だった?」
「まだ、家は大丈夫そうだな。排水溝も水、溢れそうもないし」
「そうじゃなくて・・・お兄ちゃんの事だよ」
「あー・・・」
そういう事ですか。
てっきり、家の周りの事言ってるのかと思った。
「まあ、問題なし・・・今のところは」
そう言うと、紗枝は安心したように、ふぅ、と息を吐き出した。
俺の体、心配してくれてるんだよな。
紗枝が差し出してくれたタオルで、合羽を拭き、紗枝に手渡した。
「無理しないでね」
「なに、男というのは、無理したくなるときもあるんだよ」
「だからって・・・」

プルルルルル・・・プルルルルル

紗枝が言葉を続けるのを止めるかのように、電話が鳴り出した。
「俺出るわ。紗枝は合羽畳んでくれるか?」
「うん」
紗枝は肯くと、和室に入っていった。
電話を受け取り、いつも通りの対応をする。
「はい、もしもし」
『直也か。俺だ、俺』
この声は、お父さんだな。
『そっちは、台風、大丈夫そうか?』
気さくな感じで話しかけてくるので、こっちとしても気を使わないですむ。
「今、雨戸閉めたとこ。大丈夫かどうかは、正直分からない。父さんのほうは大丈夫なのか?」
『こっちはアパートだぞ?大したことないと思う』
「あ〜なるほどね」
『紗枝は、大丈夫そうか?』
「今のところは問題なさそう」
『そうか』
父さんはそう言うと、少し考えるように間を取った。
『台風には注意しろな』
「分かった」
そう言って、受話器を元の位置に戻す。
電話機の白黒の液晶ディスプレイに表示された通話時間は36秒。
相変わらず、超短時間電話だ。
通話料、相当安いだろうな。
そんな事をコンパクトに考えながら、和室に入ると、紗枝が合羽をケースに収めているところだった。
さすがに、数十秒で合羽を元の状態に戻すのは難しいだろう。
そんな事を考えているうちに、紗枝はあっという間に合羽を元の状態に戻し、こちらに話しかけてきた。
「誰から?」
「親父から。台風には注意しろな、だと」
まったく、感情がこもってるんだかこもってないんだか、よく分からん。
台風といっても、これまで通り、青のポリバケツが吹っ飛んできたりするぐらいなはずだ。
何も気にしなくてもいいだろう。
「ま、このまま通過するのを待つだけ・・・だな」
「そろそろ、夕食にする?」
「そうだな」


夜9時頃、リビングで台風速報を聞いている間中、不意に、音も無く、家の中の照明が全て消えた。
瞬時に周りが暗闇に包まれる。
「きゃっ・・・」
隣に座っていた紗枝が、ぎゅ、っと腕にしがみついて来くる。
紗枝の柔らかい香りが、鼻をくすぐった。
「て、停電?」
紗枝があたりを見回すのが分かった。
「らしいな」
外は真っ暗、家の中も、もちろん真っ暗。
暗闇の空間の中で、唯一、光源と呼べる光源は淡く残光をはなっている蛍光灯。
ざぁ・・・ざざぁ・・・と風雨がトタン屋根にたたき付けられる音がより一段鮮明に聞こえる気がして、不気味感じがする。
「電灯は、階段下・・・だよな?」
「う、うん・・・」
立ち上がって、階段下に行こうと思ったけど、一つ問題が。
「・・・」
「・・・」
「あのー、紗枝?動けないんだけど・・・」
紗枝にしっかりと腕をつかまれて、動きが取れない。
「え?あ、う・・・あ、ご、ごめんなさい」
紗枝は慌てた様子で、手を離した。
「なんだ?紗枝、こういうの苦手?」
「そうかも・・・」
ほう、と頭の中で感心しながらも、紗枝の反応に、つい、可愛い、と思ってしまった。
薄暗い家の中を移動して、なんとか、懐中電灯を見つけた。
スイッチをつけると、暗かった周りの状況が分かった。
紗枝は俺のTシャツをぎゅ、っと掴み、後ろにぴったりとくっついている。
・・・ハムスターみたいで可愛らしい。
ブレーカーはたしか、脱衣所にあったはず。
そう思って、ブレーカーを見てみると、ものの見事に全てが通電していた。
「ん〜・・・」
「どうしたの?」
ブレーカーに光を当てながら唸ると、紗枝が斜め後ろから声を掛けてきた。
「停電だ、これは」
間違いない、10個ほどあるブレーカーのレバーは全てがONの状態になっていて、停電以外に考えられない。
脱衣所の小さな窓から、外を見ると、やはり近くの街灯も消えてしまっているらしく、暗闇に包まれている。
不意に、風が家を、ギシッ、と鳴らした。
「直るのを待つしかないって事?」
心配そうな、不安そうな声で紗枝が言った。
「まあ、そういう事になるな」
「どうしよう?」
ここは、台風が過ぎ去るのを寝て待つしかない。
「寝るか?少し早いけど」
「え、でも・・・私・・・その・・・眠れないかもしれないから・・・お兄ちゃんの部屋で寝たい・・・」
「は?」


先ほどから、ベットに腰掛けて何を話すでもなくいるのだけれども、紗枝が異常なほど、俺に体を寄せている。
肩は完全に触れてるし、腕もしっかりと捕まえられている。
たかが台風、されど台風だけど、ここまでおびえる必要は無いと思う。
屋根が吹っ飛ぶわけでもあるまいし。
ところで、紗枝、17なんだよな。
ちょっと、・・・というか、かなり子供っぽいような気がするんだけど、普通の人って、こんなものなのか?
「紗枝、そのまま寝るのか?着替えてきたらどう?」
「う、うん・・・」
紗枝はそう答えたけど、一向に立つ気配が無い。
暗がりの部屋の中を、灰皿に立てたろうそくの光がほのかに照らす。
「紗枝?」
「・・・」
「・・・」
紗枝は返事をしなかった。
先ほどから、雨と風が強くなっているような気がする。
屋根がトタンだから、雨音がすごい。
ざぁぁーー、と切り無く轟音を発している。
また、トタン屋根がギシギシ、と嫌な音を発した。
紗枝が一段と体を寄せてくる。
「お兄ちゃん・・・大丈夫かなぁ?私、怖いよ」
紗枝の心配そうな声が耳に届く。
「大丈夫だって、そんなに心配するなって。・・・着替えはどうする?」
「・・・お兄ちゃんの借りていい?」
「まあ、それはいいけど・・・」
立ち上がって、クローゼットに行こうとするけど、やっぱり動けない。
「あのー、紗枝?動けないから」
「あ、うん・・・ごめんなさい・・・」
紗枝は腕の力を抜いた。
クローゼットの中にある引き出しから、着替えとなるようなものを探す。
上はTシャツでいいと思うけど、下は・・・無いよなぁ。
というか、思いつかん。
ちなみに、下・・・って言っても、下着の事じゃない。
Tシャツを一枚つかんで紗枝に放ると、紗枝は一瞬送れて反応して、なんとかキャッチした。
「下はどうする?」
「え?あ、これだけでいいよ」
紗枝はそう言うと、大胆にもその場で上着を脱いだ。
肌がろうそくの光でオレンジ色のような色に染まり、なんか、いやらしい感じがする。
あっけに取られた。
慌てて背中をむけ、目をそらす。
「・・・」
あー、目の保養にはなるけど、精神には毒だ。
「・・・もういいよ」
しばらくしてから、紗枝の声がした。
振り返ってみると、俺のTシャツを着込んだ紗枝がベットの上に座っていた。
上着は全部脱いだらしく、Tシャツだけの格好だ。
紗枝には大きめのTシャツだから、太もも辺りまで隠れていて、かろうじて下着が見えない。
それにしても、無防備すぎる・・・
隣に座るのも気の毒のような気がして、さっきより少し離れたところに腰をおろした。
「・・・」
「・・・」
沈黙が続く。
トタン屋根を叩く雨音が一段とよく聞こえてくる。
何もするわけでもなく、ろうそくの一点をじー、っと見つめ続ける。
ろうそくの灯りは左右にふらふらと揺れながら、温かい光を発し続けている。
「紗枝・・・」
気がつくと、紗枝が俺のすぐ傍まで来ていて、俺の肩に体をあずけていた。
「・・・このTシャツ、お兄ちゃんの匂いがして・・・すごく落ち着く・・・」
紗枝が小さく消え入るような声で言った。
その言葉に、胸がどくん、と高鳴る。
「・・・」
紗枝は、ちょっとだけ顔を上げ、上目使いで俺を見てから、すぐに視線をそらした。
もやもやとした感情が湧きあがってくるのが分かった。
それが何なのかは分からないけど、ものすごく・・・抱きしめたい。
無言で紗枝の背後に回り、そっと紗枝を抱きしめる。
「・・・」
「・・・」
「こんなのはどう?・・・落ち着いてくれる?」
「・・・」
「・・・」
「うん」
やさしく声をかけると、しばしの間があったあと、紗枝はそう答えた。
体温が、大して厚くもない布2枚を隔てて伝わってくる。
紗枝の髪からはシトラスのような清潔な香りがして、心臓をどきどきと鳴らせる。
すると、紗枝は体をこっちに預けてきた。
こっちもそれに答えれるように、そっと抱きしめる。
明らかに、普通の兄妹じゃしない行為。
兄妹にしては、甘すぎる行動。
でも、紗枝が落ち着いてくれるんだから、それでいいと思う。


結果的に、紗枝と同じ布団で寝る事となった。
もう、眠れないほど心臓が高鳴ってしまったけれど、紗枝の安らかな寝息を聞いていると、あっという間に心臓の高鳴りは影を潜め、気がつくと朝になっていた。
よかったんだか、よくなかったんだか、よく分からない。


目が覚めると、隣にいたはずの紗枝の姿はもう無く、カーテンが開き、窓も開いていた。
窓の外には、雲ひとつ無い空ががひろがっている。
「・・・起きるか」
いつまでも寝ているわけにはいかない。
体を起こして、ぼー、っと3分ほどまどろんでから、部屋を出た。


トントントン、という包丁の音を聞きながら階段を下り、リビングに入ると、朝食を作っているらしい紗枝と視線が合った。
一瞬のうちに、昨日のことが思い出され、心臓が跳ね上がる。
紗枝は、傍目でもわかるほど頬を赤く染めて、おはよう、と小さく言った。
「お、おはよう」
詰まりそうになりながらも、そう言うと、紗枝は耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
ものすごく、可愛い。
「電気は直ったのか?」
「うん。7時ごろに直ったよ」
「そっか」
それっきり、会話が途切れる。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
しーん、とした静かな時間だけが過ぎる。
・・・間、間が持たない・・・
「き、昨日はよく眠れた?」
いつも通り、何事も無かったかのように、カウンターに座って、紗枝に話しかける。
そう、何気に、何事も無かったかのように、いつも通りに。
でも、話しかけてから、しまった、と思った。
慌てて口をふさぐけど、もう遅い。
「き、昨日は・・・よく・・・眠れたよ」
紗枝は俯いたまま、そう答えた。
見ているこっちまでも赤面してしまいそうになる。
そして、再び無言の時間が過ぎる。
紗枝も手を動かすのを止めてしまい、
明けられた窓から、すずめの鳴き声がせわしなく聞こえてくる。
「・・・」
「・・・あ、朝ごはん、もうちょっとで出来るからっ、待っててっ」
紗枝は、慌てたようにそう言って、再び朝食を作り始めた。
けど、紗枝の顔は赤いままだった。


俺は、紗枝に庭掃除を任命されて、庭掃除をすることになった。
庭に出てみて分かったけれど、庭は結構木の枝や葉っぱ、ゴミなどが飛んできて、すばらしい状態になっている。
「・・・あたー。これはすごいな」
一目見た印象がそれ。
ったく、と悪態をつき、台風なんか来なきゃいいんだ、と思いつつも、昨日の紗枝の行動を思い出して、それでもいいかな、と思ってしまう。
木の枝は竹箒でなんとかできても、濡れた葉っぱは芝生にくっつき、竹箒じゃ対応できないので、軍手を装備して、ゴミ掃除をはじめた。
「・・・」
みるみるうちに、ゴミなどがビニール袋の中にたまっていく。
しかも、数が多く、大変面倒。
紗枝に手伝ってもらおうとも思うけど、紗枝は残念ながら冷蔵庫の中の整理中。
昨日の停電で、ダメージのあった食材などの廃棄などをしているらしく、手伝ってもらうことは不可。
「うー」
唸りながらも作業は続け、気がつけば庭は結構綺麗になっていた。
最後に、倉庫に避難させた植木鉢などを、元の場所に戻し、俺の仕事は終わった。


「いい天気だな」
全開に明けられたリビングの窓の縁に腰を下ろして、空を見上げる。
昨日とは打って変わって、雲ひとつ無い空が広がっている。
リビングの窓からは、時折、そよ風が吹き込み、風鈴をちりんちりん、と鳴らす。
「紗枝、そっちは終わった?」
ひっくり返り、キッチンで何かをしている紗枝に話しかける。
「もう終わったよ」
紗枝は、けろっとした表情でそう返してきた。
早っ。
いつの間に終わらしたんだ?一体。
俺が遅かっただけか。
「庭掃除は終わったの?」
「ご覧の通り」
「じゃあ、悪いんだけど、掃除機かけて貰えるかな?」
「分かった」


午後になると、昨日の台風騒ぎはどこへやら、いつものように時間が流れはじめた。

ピンポーン・・・

リビングでテレビを眺めていると、珍しく、インターホンが鳴った。
ん?誰だろ。
「あ、私出るね」
台所で何かをしていた紗枝は、そう言って、ぱたぱたと玄関のほうに出て行った。
しばらくして、どこかで聞いたような声が聞こえてくる。
『おじゃましまーす』
『あ、今、待ってたとこだよ』
『あれ、持ってきたよ』
『え?ほんと?』
あれ、ってなんだろう、あれ、って。
なんか、気になる。
ま、口出すことじゃないか。
『まあ、上がって上がって。烏龍茶と、レモンティーがあるけど、いる?』
『じゃあ、レモンティーで』
そんな声がした後、二人がリビングに顔を出した。
客人は、この前会った、紗枝の友人、瀬名だ。
「直也さん、こんにちわ」
瀬名は俺の姿を見つけるなり、ぺこっ、と元気よく頭を下げた。
「ああ、こんにちわ」
片手を上げて、愛想を振る。
「ここで何かするのか?じゃまなら、外すけど」
そう言って、紗枝を見ると、紗枝は、視線を瀬名に移した。
「私は別にいいですよ。直也さんから聞きたいこともありますし」
「そう。じゃあ、ちょっと待っててね」
紗枝は、そう言うと、飲み物を取るためか、キッチンのほうに入っていった。
「台風、大丈夫でした?」
瀬名は俺が座っているソファーの反対側に座るなり、そう話しかけてきた。
「案外、大丈夫だったよ。庭先にゴミが結構飛んできてたけど」
紗枝に飛び付かれた、という事は言うもんじゃないだろう。
「停電しませんでした?」
「ん?そっちもか。こっちも停電したよ」
「怖かったですよー、家は風でガタガタ言うし、真っ暗だったし。間違って高一の弟に飛び付いちゃったんですけど、嫌な顔されちゃいました」
瀬名はそう言うと、てへ、と舌を可愛らしく出した。
弟さんがいるのか、なんか、瀬名とは真反対の性格してそうだ。
そんな事をなんとなく考えた。
「でも、今日はいい天気ですよねー」
笑みを浮かべ、のほほんとした口調で瀬名が言った。
「まあな」
軒下につるされた風鈴が、背景の青い空に溶けて、ちりん、ちりん、と鳴っている。
「直也さんは、どこかに出かけたりしないんですか?」
「ん〜・・・たまに、友達とどっか行くぐらいかな」
そんなことを話していると、紗枝が飲み物を持ってキッチンから戻ってきた。
「はい、レモンティーね。お兄ちゃ・・・兄さんには、烏龍茶」
アイスロックの入ったコップが目の前に置かれる。
紗枝も自分の前に飲み物を置いた。
どうやら、俺と同じ烏龍茶らしい。
「悪いな」
「ありがと」
「いえいえ」
紗枝は手を左右に振った。
「で、今日は何しに来たの?」
烏龍茶を一口飲み干してから、瀬名に聞く。
玄関先で二人が話していた“あれ”が気になる。
「あ、それはですね・・・」
そこで言葉を切った瀬名は、持ってきたかばんの中から、あるものを出した。
クリアケースの中に、DVDらしきディスクがラベルも無く収まっている。
「何?なんかのイベントでも記録したの?」
そう言って、烏龍茶を口に含む。
最近じゃ、よくDVDとか作れると言うし。
「AVです」
「ぶっ」
吹き出してしまいそうになり、口元を手で押さえる。
「弟の部屋から盗ん・・・持ってきました」
瀬名はけろっとした顔で言った。
まあ、高校生だから興味はあると思うけど・・・
って、納得するな俺っ。
つーか、んなもん持ってくるなっ。
しかも今、盗んできた・・・って言おうとしたろ。
突っ込みどころ満載だ・・・。
「ごほっごほっ・・・」
気管に入っ・・・た。咽る咽る。
「あ、大丈夫ですか?」
「い、いや・・・」
数秒後、咽が止まってから、改めて瀬名の顔を見つめてみる。
「紗枝が・・・どうしても見たいって言うから」
瀬名は顔を赤く染め、手で覆うと、そんな事を言った。
首を曲げて、紗枝のほうを見てみる。
「ちょ、ちょっと美代、そんな事言ってないでしょっ!」
紗枝は、慌てたように強い口調で否定した。
「そ、それにっ、そんなのだったらお兄ちゃんの部屋のたんすの最上段にっ!」
ぐはっ。
紗枝、地雷を踏むな。
分かりづらいように奥のほうに突っ込んでいたと言うのに・・・。
ばれていたとはなんとも恥ずかしい。
「・・・ん〜、何で知ってるのかな?」
紗枝の顔を見て何気なく聞いてみる。
「それは・・・その・・・家の住人として・・・」
紗枝はもじもじと手を動かして、俯いてしまった。
紗枝にばれていた事が恥ずかしく思え、眉間にしわが寄ってきてしまう。
家の住人とはいえ、知っていいレベルの事じゃないだろ、それは。
「あー、今、直也さん墓穴掘ったー。やっぱり、持ってるんだー」
「ぐっ・・・」
言葉も出ない。
「すいません。持ってます」
「まあ、AV持ってきた、というのは嘘です。これは空ディスクですよ。で、今日はDVDを見たいなぁ、と思いまして」
そう言った瀬名は、テーブルの上においてある怪しげなディスクを、かばんの中にしまった。
そして、今度はしっかりとした映画のDVDがテーブルに置かれる。
「はぁー」
つ、疲れる。
紗枝を見ると、紗枝も俺と同様に顔が引きつっていた。


瀬名が持ってきたDVDは昔に見たことがある映画だった。
出来は結構よかったと思う。
瀬名と紗枝は見たことが無いのか、画面にくぎづけになっていて、面白そうに見ていた。
映画が終わった後、瀬名がはじめに言った言葉は、『あーん、私もこんな恋してみたぁい』。
まあ、分からないではなけれど、男の俺の前で露骨に言うことではないと思う。


「あー、いい話だったね」
「うんうん。直也さんはどう思いました?」
「ん〜、面白かったと思うよ」
まあ、面白かったと思う。
「私もこんな恋してみたいです。直也さんは、彼女はいないんですか?」
「ぐっ」
空気が喉に詰まった。
何で急に話が飛ぶかな。
もうちょっと穏やかに出来ない?
「な、何を急にっ!?」
「・・・」
瀬名は、俺が自白するのを待っているかのように、にこにこと意地悪そうな笑みを浮かべている。
多分、俺が何かを言わない限り、この微妙な空気が永遠と続くだろう。
「やっぱり、紗枝も気になるよねー?」
「え?私?・・・き、気にならないって言えば嘘になるけど・・・」
突然話を振られた紗枝は、おどおどしながらもさりげなく導火線に点火。
ぎゃー、話に乗るなー!
ここは、さり気なーく、スルーだろ、スルー。
「でしょでしょ!?」
同意を求めるように、身を乗り出してくる瀬名。
あー、爆弾に火がついてしまった。
「で、どうなんです?」
「あ、いや、いないですよ、私は」
なぜか、敬語になってしまっている俺。
瀬名の見えないパワーは恐ろしい。
「えー、本当にー?」
瀬名は残念そうにそう言うと、乗り出していた体を元に戻した。
・・・面白いって、面白くなったら怖いっての。
「直也さんはサッカー部にいたときから人気あったし、この前だって、学級一可愛いって有名な裕美と街歩いてたのにねー」
ぶはっ。
危なく烏龍茶を吹き出しそうになった。
「どこでそれをっ!?」
慌てて聞き返すと、瀬名は一段と笑みを深くした。
思わず、顔が強張る。
「見てた人がいたんだよねー・・・紗枝は知ってた?」
複雑そうに眉をひそめた紗枝は、ううん、と首を横に振った。
「いや、それは、ただ、買い物に付き合ってくれないかな、って頼まれただけで、そんなやましいものじゃ・・・」
「ははー・・・」
瀬名は納得したかのように肯いた。
まるで、なんでもお見通しのように見える。
「それをデートって言うんじゃないの?」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
にこにこ、と笑みを浮かべる瀬名が恐ろしく感じる。
「すいません。たしかにあれはデートかもしれないです」
俺は降参すべく頭を下げた。


瀬名は、また来るねー、と一言残して帰ってしまった。
相当俺は精神的ダメージを受けたけど、彼女の場合、全く悪気が無いのでこっちの毒気が完全に抜かれてしまう。
夏独特の生ぬるい風とともに、時折ちりーん、と風鈴が鳴る。
「私、夕食の材料買って来るね」
紗枝はそう言うと、ソファーから立ち上がった。
「俺も行こうか?」
気遣いのつもりで言うと、紗枝は目を伏せて首を横に振った。
「ううん、いい・・・私、もうお兄ちゃんに迷惑かけるわけにはいかないから」
紗枝は多分、さっきの話を引きずっているんだろう。
「あ、いや、それはだから・・・」
だから、あれは、後輩で茶道部の買出しにつき合ってくれって言われただけで・・・
「・・・私」
俺の言葉を止るように、紗枝が強い口調で言った。
「・・・お兄ちゃんのことなんて、なんとも思ってないんだからっ。お兄ちゃんも私に構わないで」
冷めた声で言った紗枝は、一度も視線を合わせようとしないまま、リビングから出て行った。
バタン、とドアが閉まると同時に、風鈴がちりーん、と鳴った。
タタタタ、と紗枝が階段を駆け上がる音を聞いていたら、紗枝から突き放されたような気がした。
そうだよな。俺は、紗枝の兄さんでしかないんだ。


あの日から、紗枝は変わった。
受け答えだって、今までのように親身にできない。
反応が薄く、キャッチボールが、キャッチボールにならず、打ちかえされてあっけなく終わる。
そして、紗枝の笑みを見ることができなくなった。
俺は、例の件に対して、何もいえなかった。
たしかに、買い物に手伝ってくれ、といわれて付き合っただけだ。
ただ、まわりに暇な男がいっぱいいる中で、なんで俺を選んだのか。
彼女とは、茶道部にクラスメイトの茶道部員と行ったとき、数回あっただけなのに。
そう考えると、少なくとも彼女は俺に好意を持ってるとしか思えない。
紗枝が瞬時にそのことを悟ったとすれば、紗枝が俺を避けるのも当然だと思う。


「紗枝、ちょっと買い物に付き合ってくれないか?」
「え?私じゃないとダメなの?」
「できるなら」
「私、やることあるんだけど」
「そ、そうか」


「紗枝、何か手伝う?」
「いいよ、このぐらい私でもできる」
「いや、大変そうだからさ」
「こんなの、大変でもなんでもない」
「いや、でも」
「お兄ちゃんは、裕美と街でデートでもしてればいいでしょっ!」


・・・
・・・・・・
ある日、裕樹から街に出ないか、という誘いがあった。
紗枝に、その事をいうと、紗枝は、わかった、と軽く一言だけ言い、俺に背を向けた。
いつも待ち合わせに使うコンビニの前で待っていると、時間ちょうどに裕樹が現れた。
「おー、久しぶり。元気してた?」
「一応は生きてるよ」
そうは言ってみたものの、声に張りが無いことぐらい自分でも分かる。
「ん〜、元気ないみたいだな。せっかくの夏休みなんだから、少しぐらい楽しんだらどうだ?」
活気のある笑みを浮かべる裕樹を見て、楽しめるか、とは思ったものの、言う気をなくした。
「そうしたいとこだ」
ほんとに。
何気なく、空を見上げる。
空は、夏色を帯びていて、きれいに晴れ渡っている。
・・・このまま、どこかに飛んでいきたい。
こう思ったのは、今まで生きていて初めてだかもなぁ。
「おい、聞いてんのか?」
「・・・」
「・・・ああ」
一テンポ遅れて答える。
上空では、雲がゆっくりと、のろのろと移動している。
自分のペースを崩さないところが、なんとも羨ましく思える。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・重症だな」
傍で裕樹がぽつりとそんな事を言った。
もう、何とでも言ってくれ、と思う。
「どこか行くって顔じゃねーな。隈できてるしよ。そんなんだったら、いちいち誘いに乗るな。おちおち楽しんでられねぇだろ」
裕樹は強い口調で言った。
何も反応を返せないでいると、はぁ、と呆れたようにため息をついた。
「・・・」
「ったく、しょうがねぇな」
参ったといったように言った裕樹は、わさわさ、と頭を掻いた。
「お前はとにかく、家に帰って寝てろ」
ピシィ、と鋭く指差される。
「・・・」
ああ、とあいまいに肯き返と、裕樹は眉間にしわを寄せた。
「途中で、絶っ対に事故るなよ。今のお前なら可能性がある」


家に戻ると、紗枝の姿が無かった。
多分、どこかに出かけたのだろう。
ま、俺とはいたくないだろうしなぁ・・・
自分の部屋に戻り、ベットの上で仰向けに寝転がる。
さわやかな風が、部屋の中を通り抜け、1階にぶら下がっている風鈴がちりーん、と鳴った。
若干こもった音色が耳に届く。
真っ白な天井を見つめ続けていると、不意に紗枝の笑っている顔が浮かんできた。
「・・・」
・・・
日に日に、紗枝への想いが大きくなっていくのが自分でも分かる。
近くにいるのに届かない想い。
そう、紗枝への恋心。
紗枝の背中を見るだけで、後ろから抱きしめたくて、抱きしめたくて、仕方が無くなる。
抱きしめて、紗枝の笑う顔が見たい。
寝る前にいつも、明日になれば、紗枝との関係が元に戻っていないだろうか、と期待してしまう。
目が覚めれば、いつものように微笑みかけてくれないだろうか。
でも、それは夢でしかない。
今の俺には、一番かないそうもない夢。
・・・
「う・・・・・・」
不意に、涙が流れた。
馬鹿野郎、男だろ、と自分に言い聞かせても、効果がない。
紗枝が見せる表情、紗枝が見せる仕草、紗枝の見せる笑みが見たい。
いままで、何気なく見せてくれたその笑みが欲しい。
どうしてだろう。
どうしてだろう。
どうすれば、もう一度、あの笑みを見ることができるんだろう。
何度考えても答えは出そうも無い。
「紗枝・・・」
気がつくと呟いていた。
こんなにも好きなのに・・・
こんなにも好きなのに・・・
こんなにも愛しいのに・・・
紗枝・・・


バタン、と玄関のドアの閉まる音がして、目が覚めた。
がさがさ、とビニール袋のこすれる音がする。
夕食の材料でも買いに行ってたのだろうか。
ふと、視線を窓の外に移すと、空は真っ赤に夕焼けしていた。
部屋の中にも、赤い光が差し込んできている。
「・・・」
・・・
紗枝、帰ってきたんだよな。
このまま、紗枝と話ができない生活が続いたら、絶対俺は潰れてしまうと思う。
この、重圧感、喪失感、脱力感を味わい続けるのはいやだ。
紗枝の信頼感は取り戻せないかもしれないけれど、少なくとも普通の兄弟並には話をできるレベルにしたい。
いつまでも、黙って現状をそのままにしておく訳にはいかない。
・・・・・・
・・・


リビングに入ると、紗枝がキッチンでビニール袋から野菜を取り出しているところだった。
「・・・」
「・・・」
俺の姿に気がついているのかいないのか、紗枝は話しかけてこようとしない。
表情を一切顔に出さず、もくもくと、夕食の準備をしている。
「買い物行ってたのか?」
カウンターの椅子に座って、紗枝にさりげなく話しかける。
「そう。そろそろ食材が切れるところだったから」
こちらの顔を見るわけでもなく、作業を続け、紗枝は言った。
「お兄ちゃんは、裕美とデートじゃなかったわけ?ずいぶんと帰ってくるには早いんじゃない?」
紗枝は棘のある強い口調でそう言うと、体重をかけ、包丁でかぼちゃを一気に切った。
ダンッ、と強い音が響く。
一瞬だけ、怖い、と思ってしまった。
「だから、彼女はなんでもないって。今日は裕樹に誘われたから行ってきただけだよ。すぐに帰ってきたけど・・・」
「そうなんだ」
紗枝はそう言ったが、ぜんぜん、こっちの話を信じていないようだった。
このままじゃ、何も変わらない。
「なあ、紗枝。なんで、紗枝はそんなに突っかかってくるんだ?」
「別に」
こちらを見ようともせず、冷たく言う。
「前から言ってるだろ。誤解なんだって。紗枝が思っているような関係じゃない」
そう言いながら、俺は席を立って、野菜を豪快に切っている紗枝の隣に立った。
紗枝は、相変わらずこちらを見ようとはしない。
「俺、正直言うと、いままで告白されたことは何回かあった。でも、あっさりと断った。何でかわかるか?」
「・・・」
紗枝は、野菜を切るため下を向いたままで、まったく反応を返さない。
でも、反応を返さないことは何となく予想がついていたので、俺はそのまま続けた。
「それは、紗枝がいたからだ」
一瞬だけ包丁を持った紗枝の手が止まった。
でも、紗枝は何事も無かったように再び作業を始めた。
「紗枝と話をするのが楽しくて、彼女なんか要らなかった。でも、彼女が要らない、というのは嘘。本当は、紗枝が彼女になってくれればなぁ、ってずっと思ってた」
紗枝の手が完全に止まった。
カタン、と音を立てて包丁が止まった。
紗枝は下を向いたまま、動かない。
「だから、紗枝の笑う顔が見れないのは、ほんとに・・・寂しい」
俺はそう言うと、紗枝を後ろから思いっきり抱きしめた。
紗枝は小さく声を上げて、一瞬だけ抵抗をしたが、抵抗しても逃げられない事を分かってか、素直に腕の中に納まった。
温かくて、切なくなる。
「・・・・・・俺、・・・・・・紗枝の事が好きなんだ」
ありったけの気持ちを込めて言った。
これで嫌いだと言われたのなら、手の届かないものと思って、諦めようと思う。
一か八かの勝負だ。
腕に込めていた力をそっと緩めて、紗枝をこちらに向かせる。
紗枝はやっぱりうつむいて、顔を上げようとしなかった。
顔色をうかがうことができない。
「・・・」
「・・・」
沈黙が流れる。
やっぱり、紗枝に嫌われたのかな俺は。
・・・
「あ、いや、今のことは忘れてな。ちょこっと気が迷っただけだから」
あははは、と軽く何事も無かったかのように笑って見せる。
軽く振舞ってでもいないと、潰れてしまうかもしれないから。
背中を見せて、リビングを出て行こうとすると、突然、ぎゅっ、とTシャツのすそを掴まれた。
「え?」
思わず振り返る。
すそを掴んでいたのは、間違いなく紗枝だ。
「紗・・・枝?」
言葉に詰まりながら紗枝の名前を呼ぶと、そのとき、うつむいた紗枝の頬に一筋の涙が伝った。
な、泣いてる?
ど、どうして?
「なんで?なんで!?なんで、お兄ちゃんは私を嫌いにならないのっ!?」
顔を上げた紗枝は、俺に向かって、そう怒鳴った。
「っ!」
突然、怒鳴られたので、なんで怒鳴られたのか頭がついていかない。
「せっかく、せっかく踏ん切りがつくと思ったのにっ!好きだなんて、無責任だよっ!」
紗枝の瞳からぼろぼろと、涙がこぼれ落ちる。
「お兄ちゃんに・・・好きだなんて言われたら・・・断れないじゃない・・・私だって、私だって、お兄ちゃんの事好きなんだからっ!」
紗枝は、手で顔を覆って、わんわんと泣き始めた。
どうしていいのか分からない。
どう言葉をかければいいのか分からない。
だから俺は、紗枝の体をそっと、そっと、傷つけないように抱きしめた。
すると、紗枝は一瞬、ビクッ、と体を強張らせたが、すぐに力を緩めた。
「・・・」
そっと、頭をなでる。
腕の中で、頬を濡らし続ける紗枝の体をしっかりと抱き寄せながら、俺は、紗枝が落ち着くまでずっとそのままの体勢でいた。


数十分・・・あるいは、数分後かよく分からないけど、紗枝はやっと落ち着きを取り戻した。
腕の力を緩めて、紗枝をそっと離す。
「ごめんね、お兄ちゃん・・・」
泣き止んだ紗枝は、俯いてつぶやく様に言った。
かすかに見える紗枝の目元は、泣いたためか赤く腫れている。
「私・・・・・・兄妹でベタベタしたらいけないと思ってたけど、お兄ちゃんに甘えること止められなくて・・・」
紗枝はいったん言葉を切った。
そして、一瞬だけ顔を上げた。
「そんなとき、美代の話聞いちゃったから・・・甘えるの止めるのにちょうどいい・・・って思って、お兄ちゃんに辛く・・・」
「・・・」
そんな紗枝の話を聞いて、いままで、何を馬鹿みたいに考えていたんだろう、と思った。
なんだ、結局思い違いだったって訳か?
紗枝も誤解をして、俺も誤解をしていた。
なんか、最初からちゃんと話し合いをしてればよかった。
こんなことしてるから、まだ大人になれないんだよな、俺は。
「ごめんね・・・ほんとにごめんね・・・」


その日の夕食は、ぎこちなさの中にも、久しぶりのやわらかい空気を味わうことができて、涙が出そうになってしまった。


・・・
・・・・・・
決して大きいベットでもないから、完全に紗枝と体が接触してしまっている。
紗枝の体温が服越しにも温かく伝わってくる。
「・・・」
なんで、今のような状況になったかというと、紗枝が強引に布団にもぐりこんできたから。
紗枝と俺との間に、会話は無い。
でも、気まずい感じはしなかった。
むしろ、安心していられる。
「・・・」
紗枝の甘いような、やわらかい香りを嗅いでいるだけで、紗枝をどうにかしてしまいそうになる。
それなのに、紗枝は無防備で、警戒することなく、俺に体を預けている。
これは、どういうことなのだろうか。
「・・・」
「・・・」
常夜灯の薄暗い明かりの中で、紗枝の瞳をじっと見つめてみる。
「どうしたの?」
俺の腕を枕にしていた紗枝は、屈託のない顔でそう聞き返してきた。
「いや、なんでも」
紗枝はどういうつもりで、俺にくっついてるんだ、なんて聞けるか。
ったく、子供っぽいやつだ。
「あ、お兄ちゃん、今、子供っぽい、とか思ってたでしょ」
「う・・・ま、まあ、少しは」
というか、かなり。
考えてたことを言い当てられたので、思わず言葉が詰まった。
「・・・でも、いいよ、子供っぽくても。私、いま、すごく安心してるの。・・・こうやって、好きな人の腕に包まれて寝てるんだから」
すると、紗枝はぎゅ、っと抱きついてきた。
一段と、体温が伝わってくる。
まるで、紗枝の想いのように。
「私、お兄ちゃんのこと・・・好き、大好き」
不意に、紗枝の想いが、胸の中に流れ込んでくるような気がした。
「私、もうお兄ちゃんのことしか考えられないの」
流れ込んでくる紗枝の想いの大きさに気がつき、言葉が出ない、言葉が詰まる。
「・・・」
「俺も、紗枝の事・・・好きだよ」
意を決して言うと、紗枝は薄暗闇の中ではにかんだ。
「・・・抱きしめて・・・お願い」
紗枝の背中に腕を回して、ぎゅー、っと抱きしめる。
「・・・ほんと、嘘みたい。私、お兄ちゃんに抱きしめてもらってる・・・」
紗枝は、頬を胸板に押し当てて言った。
「私、こうなるの、夢にまで見てた・・・・・・もっと、もっと・・・抱きしめて・・・」
その言葉を聞いた瞬間、胸がきゅー、っと鷲づかみにされた。
返事をしないで、黙って、背中に回した腕に力をこめる。
俺も、紗枝を、紗枝を感じていたい。
「・・・」
「・・・嬉しい・・・」
静かな時間の中で、その紗枝の言葉だけがやさしく響いた。


目が覚めると、すでに紗枝の姿は無くて、1階の方から包丁がまな板を叩く音が聞こえていた。
リビングに入ると、紗枝は嬉しそうに、おはよう、と微笑んだ。


美味い朝食を食べて、久しぶりの心地よさを味わいながら、ソファーでゆっくりしていると、裕樹が、前触れも無く家にやってきた。
「なんだ?昨日は死にそうな顔してたくせに、もう治ったのか?」
俺の顔を見るなりそう言って、複雑そうに顔をしかめた裕樹は、手に持っていたバスケットを持ち上げた。
持ち上げられたバスケットの中には、メロンだのバナナだの、古今東西の果物が頭をのぞかせている。
「ったく、せっかくフルーツバッスケット、とやらを買ってきたというのに」
「お、悪いな。貰っていいのか」
「調子よさそうだけど・・・まあ、いいか」
諦めたような表情をした裕樹は、フルーツバスケットを紗枝に手渡した。
それを受け取った紗枝は、律儀に頭を下げた。
「裕樹さん、ありがとうございますね」
「なになに、昨日は、直也が今にも三途の川を渡りそうな顔してたからな」
ちらりと視線をこちらに送ってくる。
なんだ、どういう意味だ。
「まあ、今は元気そうだがね。紗枝ちゃんは何か知らない?」
「えっ・・・と・・・よく、分からないです」
間をとって、言葉を濁すようにそう答えた紗枝は、俺に一瞬だけ目を伏せて見せた。
「・・・」
・・・
「あ、えっと、何か飲み物いります?」
「あー、そうだな。じゃあ、いつもの」
「あ、はい。いつものですね」
紗枝は何が面白いのか、くすり、と笑うとキッチンに入っていった。
その姿を見ていた裕樹は、どかっ、と反対側のソファーに腰を下ろした。
なんか、勝手知ったる友人宅、って感じだな。
「おい、直也」
「ん?」
聞き返すと、裕樹はテーブルから体を乗り出し、俺に顔を近づけてきた。
なにか、重要な事だな、と思い、こちらも体を乗り出す。
「お前さ、なんかずっと紗枝ちゃんの背中追ってないか?」
紗枝に聞こえないよう小さな声で言われたその言葉に、思わずドキッとする。
「そ、そんなに、追いかけてるか?」
裕樹の顔を見て聞くと、かなりな、という返事が返ってきた。
そうか、と心の中で呟いてみる。
「まあ、あれだけ可愛い娘が一つ屋根の下にいるんだからさ、惚れちまうのも無理ないとは思うけどよ、あれは露骨すぎだな」
う、と言葉が詰まった。
俺と、裕樹は中学からの仲。
紗枝が義理の妹だ、ということももちろん知っている。
「ったく、なんでか人気あんのに、彼女できねぇんだ、と思ってたけどよ。やっぱり身近なところに原因があったわけだな」
「・・・」
黙って、キッチンで何かを作っている紗枝を見てみる。
すると、紗枝はこちらに気がつき、にこっ、と笑みを浮かべた。
不意に、ドキリ、とする。
はじめは、妹として接してたんだけどな・・・いつからだろう、女性として見るようになったのは。
でも、気がついたら今の状態だったから・・・
そんな事を考えていると、にこにこと偏屈の無い笑みを浮かべた紗枝が飲み物を持って戻ってきた。
「なに、ひそひそ話してるんですか?」
体を引いて、ソファーに寄りかかる。
裕樹も俺と同様、体を引いた。
飲み物がテーブルに置かれ、氷が、カラン、と音を立てる。
「あ、どうもね紗枝ちゃん・・・まあ、世間で言うと、大人の話ってやつ」
「大人の話って、私と一つしか違わないじゃないですか」
「まあ、大人の話、というのは嘘で、お二人さんの話をしてたわけ」
ソファーに腰掛けた紗枝に、裕樹がそう言った。
「え?」
紗枝が驚いたように、目を見開く。
「いやー、もう、二人とも付き合ってるの?・・・って、もう同棲してるんだもんなぁ」
その言葉に、俺も紗枝も、ぴくっ、と反応してしまった。
「いや、それは・・・」
どう答えていいのか分からず、視線を紗枝に送る。
紗枝は、こちらと視線を合わしたけれど、複雑そうな表情をして、すぐに視線をそらしてしまった。
「・・・」
「・・・」
沈黙が流れる。
裕樹は答えを待っているようで、だまって俺の様子を伺っている。
ふと、不意にこの前の瀬名とのやり取りを思い出した。
あれで、結局言い切れなくて、紗枝と決裂してしまったんだ。
だから、ここは、はっきり言っておいたほうが、紗枝も俺のことを信頼してくれるんじゃないかと思う。
「・・・俺は、付き合ってると思ってるよ」
・・・・・・
・・・


裕樹が帰った後、紗枝は俺の部屋にやってきて、寄り添うように隣に座った。
肩が触れ合い、こちらに体重をかけてくる。
「お兄ちゃんの言ってたこと・・・信じていいんでしょ?」
紗枝が瞳を覗き込んでくる。
まるで、真意を確かめようとしているみたいに見えなくもない。
「もちろん。紗枝がよければの話だけど」
「私は・・・いいに決まってるでしょ・・・」
「・・・」
なんと答えればいいのか分からなくて、紗枝の肩をぎゅっ、と抱き寄せる。
「・・・私、お兄ちゃんと・・・キス・・・したい・・・」
消え入るような声で紗枝が言った。
紗枝と向き合って、そっと上を向かせる。
すると、紗枝はゆっくりと目を閉じた。
夕日の光が紗枝の横顔にあたっている。
こんなに近くで紗枝の顔を見るのは初めてだった。
整った顔立ち、それなのに幼さの残る顔。
そして、小ぶりの唇に惹かれてしまう。
そっと、そっと紗枝の唇に自分の唇を重ねた。
重ねた唇から想いが伝わってくるようで、胸がぎゅっ、と締め付けられる。
「・・・」
そっと体を離して、紗枝の瞳を見つめると、紗枝の瞳は涙で潤んでいた。
「ねぇ、お兄ちゃん・・・私たち、恋人なんだよね?」
「ああ」
「この前みたいに、抱きしめてくれる?」
紗枝は、甘えるような、媚びるような声をあげた。
そっと背中から紗枝を抱きしめる。
温かい体温が伝わってくる。
紗枝も俺と同様、心臓が早く鳴っていた。
「お兄ちゃん・・・好きだよ」


・・・
・・・・・・
週の真ん中に海にやってきた。
長く続くビーチを見てみれば、小学生ぐらいの子どもらが楽しそうに騒ぎ、砂浜には七色のビーチパラソルがところどころに開いている。
見ているだけで、わくわくして、自分もその輪の中に入りたくなってしまう。
「お待たせっ」
肩をぽんっ、と叩かれて目の前に姿を見せたのは、俺が選んだ白のビキニを着た紗枝。
ものすごくよく似合って見える。
「・・・どうかな?」
「ん〜、難しいな。紗枝はどの服着ても似合うからなぁ」
ちょっと、クサイかな、とは思ったけど、気分が気分なので言ってみた。
「ちょっと、もう、お兄ちゃんったらっ」
赤く染まった頬を隠すように、そっぽを向いて波打ち際に向かって歩く紗枝。
それが、照れ隠しだと分かっているから、後ろから抱きしめたくなる。
「紗枝ー」
そう、紗枝を呼んで、紗枝にだけ聞こえるように小さく言う。
「すごく・・・似合ってるよ」


俺が選んだ白い水着を着た紗枝が波打ち際ではしゃいでいる。
体つきは大人なのに、子供っぽく見えてしまう。
さんさんと空から照る太陽の光に、紗枝の白い肌、水着が輝いて見える。
でも、紗枝が輝いて見えるのは、そんな物理的なものだけじゃないと思う。
「わ、ほらっ、かにさんだよ」
「おーおー、それはすごいな」
かにぐらいで騒ぐ紗枝がたまらなく可愛く思えて、親が子供を褒めるように、過剰な反応をする。
「あー、お兄ちゃん。今、子ども扱いしたー」
「気のせいだって」
「む〜」
可愛らしく頬を膨らます。
「そんなお兄ちゃんには・・・こうだっ!」
海水をばしゃつ、と顔にかけられる。
「ぶはっ」
不意打ちだけあって、避ける事もできず、塩辛い海水と、わずかな砂利が口の中に入ってきた。
「やったなー、紗枝。じゃあこっちも・・・どうだっ!」
紗枝の一回り大きい手を活かして、思いっきり海水をかき上げる。
「きゃっ。あーもー、ずるい〜。私だってっ」
紗枝は嬉しそうに、楽しそうに笑みを浮かべている。
こっちもそれにつられて頬肉が緩んでしまう。
「ん〜、まだまだっ!」
「きゃ、ちょ、ちょっとやりすぎだよぉ」
「はははは」
「ふふ、ふふふ」


そんな感じで、二人で飽きるまで遊んだ。
まぶたを開ければ、白く、まるで天使のように輝く紗枝がいる。
気がつけば、いつものように微笑んでいてくれる。
俺は、それだけあれば他に何もいらない・・・と思った。



〜Fin〜





初版完成日
2004/10/02 16:29



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