日夜





「お帰りなさいませ。ご主人様。」
「あ、ああ。だだいま。」
家にメイドさんが来てから3ヶ月になるのだが、どうも帰ってくるたびにドッキッとしてしまう。
俺が、住んでいるのは街の郊外にある一軒家。
一応貸家ということになる。
あまり広くは無いが、庭が広いので俺は気に入っている。
そんな、貸家になぜメイドさんがいるのかというと、自分でもまったく分からない。
うちにきているメイド。名は"日夜(ひよ)"というらしいが、
別にロボットでもなければ、捨てられていたわけでもない。記憶喪失でもなければ、猫でもない。
正真正銘の生身の人間が、俺の家にきているのだ。
「夕飯のほうはもう用意できていますので、着替えがすみましたらリビングにいらしてください。」
「分かった。」
数ヶ月でわかったのだが
"メイドさん"というものは、こんなにも固いものなんだろうか。
たしかに、忠誠を誓うというのではこれでいいのかもしれないが、
俺はもう少し楽な関係になりたいと思う。


着替えてリビングに入ると、自分では作れないような豪華な料理が並んでいた。
同じ食材でもここまで出来るのか。と、感心してしまう。
「ずいぶん豪華だね。美味しそうだよ。」
「ありがとうございます。」
「じゃあ、いただこうか。」
このメイドさんの"日夜"だが、はじめはご飯も一緒に食べてくれなかった。
『いえ。ご主人様と一緒に食べるわけには・・・』
などと、日夜はねばっていたのだが、
どうにか一週間言い続けて、やっと一緒に食べてくれるようになったのだ。
「美味しいよ。」
と言って、夕食を食べている日夜の表情を盗み見る。
しかし、その表情は月のように静かだった。


俺が一人暮らしを始めた頃から朝は目覚し時計で起きていた。
それは日夜が来ても変わりは無かった。
布団の上でボケッとしているといつも日夜がやってきて、アイロンのきいた服を置いていってくれる。
それは今日も変わらなかった。
「ご主人様。着替えはここに置いておきますので、着替えましたなら、リビングにいらしてください。」
「ああ。毎日悪いね。」
「いえ。当然のことです。では、失礼します。」
日夜はそう言って部屋を出て行った。
俺は日夜の本当の表情を見たことが無い。
それを見るにはどうすれば良いのか。俺にはさっぱり分からない。


リビングに入ると、朝食が並んでいた。
トーストにサラダ、目玉焼きに、焼いたベーコン。そしてコーヒー。
朝が苦手な俺のために比較的かるいメニューを日夜は作ってくれる。
毎日感謝しっぱなしだ。
「日夜。今日は友人連れてくるから、なんかおつまみとか作ってくれないか。」
「はい。わかりました。」
「あと、今日は5時ごろ帰ってくるから、その時間に合わせてほしい。」
「はい。」
「あと、なんか欲しいものが合ったらなんでも言ってくれ。予算内で何とかするから。」
最後の言葉は毎日のように言っている。
日夜は年頃の女の子だ。洋服とかに興味を持ってもいいと思うし、
いくらメイドさんでもすこしぐらい贅沢はしてもバチは当らないと思う。
「あの、ご主人様。」
「なに?」
「申し訳ないのですが、自分の靴下が古くなってしまって・・・」
俺は驚いた。初めて日夜が自分から要望をしてきたのだ。
「別にそんなに遠慮しなくても良いのに。俺は主人として君に肩身の狭い思いはしてもらいたくないな。」
なんか自分には到底似合わない言葉だが、口から出てしまった。
「すいません。」
「じゃあ、明日休みだから、一緒に買い物に行こうか。」
「そ、そんなことをしていただくわけにはいきません。」
「いいからいいから。」
そう言って、過剰に遠慮している日夜を強制的に買い物に連れて行くことになった。


「じゃあ、行ってくるよ。」
「いってらっしゃいませ。」
朝食を食べた後、俺は日夜に挨拶をして家を出た。
会社へと足を運びながら、俺は今朝の日夜のことについて思い出していた。
初めて自分から要望をしてきた日夜。
少しだが表情が変わったような気がした。
それだけで俺はなんだか無性に嬉しくなった。


仕事帰りの俺はいつも極端に疲れている。
しかも今日は友人付での帰宅となった。なんか予想しただけで疲れそうだ。
なぜ、飲み会をしようなんて言い出したんだろうか。
「ただいま。」
「おじゃましますよ〜。」
「失礼します。」
おじゃましますよ〜と言ったのが、会社で俺の左隣の席に座り、やたらと茶々を入れてくる、信弘。
失礼しますと言ったのが、俺の正面向かいの席でいつももくもくと仕事をしている、治夫。
この二人は性格がまるっきり逆だ。
俺が帰りの挨拶をすると、パタパタとスリッパの音を立てて、日夜がやって来た。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」
「ほほう。この方が英が言ってたメイドさんか?」
「そうだぞ。」
「なあ、持ち帰りしていいか?」
「だめ。・・・まあまあ、二人ともあがってくれ。」
リビングに入ると、テーブルの上には少々のつまみものが置いてあった。
日夜はきちんとつまみを作ってくれたらしい。
「あのメイドさんは名前はなんと言うんだ?」
ソファーに座りかけながら治夫がそう聞いてきた。
日夜はいまキッチンに入って、何か作っているみたいだ。
「日夜だよ。」
「どうすれば、あんなコスプレを彼女にしてもらうことが出来るんだ?」
今度は信弘がそう聞いてきた。
「知るか。日夜は本当のメイドさんなんだからそんな方法は知らん。」

帰りに買ってきた350mlの缶を3人で9本空けたところで、
日夜が新しいつまみを持ってきた。
しなやかな手つきで、そっとテーブルに置く。
「あの、ご主人様・・・」
「ん?」
「あの、お酒と言うのは美味しいものなんでしょうか?」
う〜ん。どうなんだろう。実際ビールは初めての人が飲むと結構苦い。
チューハイなら初めてでも美味しいと思う人は多いと思うが・・・。
「ビールはあまりお勧めできないけど、チューハイなら飲めると思うよ。・・・飲みたいの?」
「い、いえそんなことは・・・」
「飲みたいんでしょ?」
「ご主人様は酔っておられます。」
「話をそらすなって。・・・飲む?」
「・・・・・・」
ちょっと言い過ぎたか。
「まあまあ座れって。」
俺は少し左に移動して、日夜を隣に座らせた。
俺が連れてきた二人の様子を見ると、
信弘の奴は酒が入っていつもの如く上司の愚痴を治夫に聞かせていた。
・・・治夫もよく耐えられるな。
「ほら。飲んでみな。」
カシュ
っと音がして缶のふたが開く。
そして、目の前に置いてある使ってないグラスに半分ほどそそいで、日夜に手渡した。
「あの・・・飲んでよろしいのですか?」
「いいからいいから。」
日夜は慎重にグラスを口に運んで、コクリと一口だけ飲んだ。
「美味しいですね。」
「ジュースじゃないから、あんまり一気に飲むなよ。」
と言って、俺は二十歳の時調子に乗ってチューハイをがぶ飲みして、
あぶなく救急車に運ばれそうになったことを思い出した。
日夜がコップを空にした頃には、彼女の顔は真っ赤になっていた。
「ご主人様ぁ?なんか気分がいいですよ。」
「日夜は酔い易い体質なんだな。」
「ご主人様・・・。」
日夜はそう言うと大胆にも俺の右腕に抱きついてきた。

「あ。」
「「お!」」
日夜がとった行動に信弘と治夫が反応した。
「お。らぶらぶですなぁ。英君。」
「全くだ。」
「・・・ご主人様ぁ〜?」
日夜そう言うとさらに強く抱きついてきた。
「なあ、治夫。俺たちがここに来たのは間違いだと思わんかね。」
「だと推測されます。」
「退散しますか。」
「するとしましょう。」
「では、英君。また明日会社で会おう。」
「では。」
と言って、風の如く去っていった。しかも、飲みかけのビール片手に。
あいつら一体なんだ?普通に飲んでればいいのに。
ふと、右腕を見ると、日夜がまだくっついていた。
俺は日夜の髪をそっとなでた。その髪はとっても滑らかだった。


翌日、目が覚めると俺はソファーで横になっていた。
体にはタオルケットが一枚掛かっている。
カーテンはもう開いていて、かなり明るい。
それに、太陽光がリビングの奥まで入っていないので、もう日が昇ってからかなりの時間が経っている事が分かった。
「あ〜寝てしまったのか・・・。」
体を起しながらつぶやく。
本当に今日が休みでよかったとあらためて思った。
すると、背後からパタパタという音が聞こえてきた。
「ご主人様。お起きになりましたか?」
振り向くと日夜がメイド服姿で立っていた。
その姿を見た瞬間、昨日の日夜が思い出された。
普段は見せてくれない顔を見せてくれた。
「あの、昨日はすみませんでした。」
「いいって。いいって。頼ったり頼られたりでいいじゃないか。」
「あ、でも私はメ・・・」
「ストーップ。」
俺は日夜が言うセリフを止めた。
「メイドさんは主人を頼ったら駄目なのか?少しぐらい頼られないと主人の意味が無いじゃないか。」
「しかし、私はそう言われてきました。」
「じゃあ、それを変えてくれ。俺は日夜に頼られたいし、頼りたい。」
「・・・」
「それが、ここの約束事だ。」
「はい・・・」
日夜は少し納得がいかない。というような表情をしていたような気がした。


昨日、日夜は俺の腕をつかんだまま寝てしまった。
三十分ぐらいそのままの状態でいたんだが、どうも起きる気配が無かったので、日夜を寝室に運んだ。
体はものすごく軽くて、栄養失調なんじゃないかと思えるほどだった。
日夜を寝かせた後、俺はリビングに戻って宴会の片付けをした。
久しぶりに皿を洗った。
誰もいないリビングとキッチンはすごく静まりかえっていて、不自然で、生きた感じがしなくて、
日夜がいたおかげで俺も結構やすらいでたんだなぁと思ってしまった。


「今は9時半か・・・午後になったら、買い物に行くか。」
「は、はい。すみません。」
「はぁ〜。」
溜息をつく。相変わらず、日夜の態度は硬い。
「朝食はどうしますか?」
「日夜はもう食べたのか?」
「はい。ご主人様には申し訳ないのですが、先に頂かせていただきました。」
「・・・俺はいいや。時間が中途半端だし、昼飯まで我慢するよ。」
「はい。」
「じゃあ、コーヒーをお願いするよ。」
「かしこまりました。少々お待ちください。」
日夜はそう言ってキッチンに入っていった。
俺は昨日から着っぱなしのスーツを着替えるために二階にあがった。


戻ってくると、ちょうどコーヒーが出来上がっていた。
豆から煎れたコーヒーならではのこうばしい香りがする。
カウンターに座ると、向こう側のキッチンから日夜が語りかけてきた。
「今日は少し濃い目にして砂糖を多くしました。」
「砂糖?」
俺は少し疑問に思い聞き返した。
「はい。砂糖はエネルギー源になりやすいので、貧血を起しにくくなります。」
「なんか悪いね。」
どうやら俺に気を遣ってくれたらしい。日夜の表情はいつものように変化が無かったが、
少し、日夜の暖かさが分かったような気がした。
湯気が立っているコーヒーを口に入れる。
「おっ。結構美味しいぞ。」
「ありがとうございます。」
「そういえば、今日他に買うものは無いのか?」
ふと思いついてそう聞いてみる。
実際買い物に行くのだから、まとめて買ったほうがいい。
「あるといえばあるのですが・・・」
「何?」
「調味料と食材がなくなりかけています。」
料理に毎日使うからなぁ。
「あと、予備電池がありません。」
これが無いとリモコンとか使えなくなるんだよな。
「洗濯バサミが、壊れてしまいました。劣化が原因のようです。」
ベランダに置きっぱなしだったから、水に濡れて壊れたか。
「ハンガーも少し足りないです。」
日夜が来て二人分になったからな。
「あと、・・・」
「?どした?」
日夜の口調が止まった。
「自分の下着が・・・・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・あ、悪い悪い。じゃあ、午後買いに行くか。」
「はい・・・。」
日夜は顔を少し赤色に染めたような"気"がした。
しかし、荷物が多すぎて、歩きでもてる量じゃないぞ。
街まで歩きで20分少々だし。
・・・車使うか。
大体なんで会社より街の方が遠いんだ?


車をいじるのは俺の楽しみでもある。
二十歳の時に無理して買ったスポーツカー。五年近く経った今でもまだ乗っている。
この車を使うのは遠出する時だけ。
会社はすぐ側なので、車を使わない方がいろいろといい。
車庫から出して、洗車でもしますかね。


車体がピカピカになった頃ちょうど正午になった。
一人で車の正面に立ち『うむうむ』と唸って納得していると日夜がやって来た。
「ご主人様、昼食の用意が出来ました。」
いつも思っているのだが、あのメイド服は暑くないのだろうか。
ちょっと不思議だ。
今は初夏でだんだん暑くなってくる頃。俺だったらいくらメイドでもあの服は暑くて着れそうに無い。
「その格好暑くないのか?」
「いえ、実用上問題ありません。」
実用上ね。実用上。
俺には車というちょっとした趣味があるわけだが、日夜には何か趣味があるのだろうか
「日夜はなにか趣味ないのか?」
「いえ、特には。」
「本当?」
「はい。」
「・・・・・・」
日夜の大きな目をじっと見つめてみる。
「嘘だな。」
「あっ。」
「ご主人様に嘘はいけないと思うんだけどな。」
「も、申し訳ありません。」
日夜は少し慌てた様子で縮こまった。
「で、何が趣味?」
あらためて聞いてみる。
「・・・読書です・・・」
「じゃあ、今日は本屋にも行こうか。」
「すみません。」
日夜はさらに縮こまった。
なんか、こっちが虐めてるみたいであんまり気分がよくない。
「なあ、そんなに謝らなくていいから。日夜も少しぐらいリラックスしてくれ。」
「はい・・・」
「まあいいや。昼飯できてるんだろ?」
俺は車から離れ家に向かいながら日夜に聞く。
「はい。今日はスパゲティにしてみました。」
「お、うまそうじゃん。」


昼食を取った後、出かける準備をして車に乗り込んだ。
日夜はまだ部屋で着替えをしているらしい。
さすがに、メイド服のままで町に繰り出したら、大変な騒ぎになるだろう。
下手をすると、警察官に尋問をうける事にもなりかねない。
自分で想像していて怖くなってきた。
<バタン>
お、日夜が玄関から出てきた。
デニムのロングスカートに長袖の服。
服の事なんてよく分からないから詳しくは分からない。
日夜、今日はなんかメイド服と違って新鮮だ。
「あの・・・」
運転席から顔を出しながらボケーっとしていたら、日夜に話し掛けられた。
「あ、ああ、可愛いよ。」
「っ!」
気付いたときには口から思っていた事を出してしまっていた。
日夜は本当に顔を赤くしてしまっている。
それに、日夜の顔には恥じらいがでていて、本当に可愛かった。
・・・・・・抱きしめたくなるぐらいに。
「あ、助手席に乗ってくれ・・・」
「は、はい」
消え入りそうな声でそう日夜は答えた。


商店街の入り口の駐車場に車をとめて、車から降りる。
すると、強烈な直射日光に照らされた。
「暑いな〜。」
「はい。暑いです。」
日夜も車から降りる。
どうやら、日夜も俺と同じ心境らしい。
この天気いくらなんでも強すぎる。
「じゃあ、行くか。」
「はい。」
俺たちはとことこと歩き出した。


歩行者天国の商店街を歩く。
車が通らないので交通事故に合う心配は無い。・・・あたりまえか。
隣で歩いている日夜を見ると、きょろきょろとあたりを見回していた。
「こんなところに来るのは初めてか?」
「あ、いえそんなことは無いのですが、若い男女が・・・」
日夜に言われてあらためて気がつく。カップルが多い。
一昔前の言い方をすれば、アベックと言ったところか。
これは正直自分も辛かった時期があった。
二十歳前のときは、何で俺だけ彼女がいないんだろうか。と悲しみに落ちた時もあった。
でも、二十六が近くにあると、そんなことも気にしてはいられない。
すでに俺の頭の中には"記憶削除機能"と"入力データ制限機能"がついている。
これがないと気がおかしくなる。
「まあ、日曜日だしこんなもんじゃないのか?・・・日夜はどう思う?」
俺はちょっと気になったので聞いてみた。
メイドさんである日夜はどんな反応をしめすのだろうか。
「みんな幸せそうです。」
「・・・そうだろうなぁ。幸せなのは間違いない。」
「はい。ご主人様はどう思いになりますか?」
え?と思った。日夜に質問されるとは思ってもいなかったからだ。
「まあ、昔は結構羨ましかったね。何で俺だけ・・・とは思ったけど。」
「・・・」
日夜はだまって話を聞いてくれている。
そして、俺は続けた。
「でも、今は日夜がいるからどうってこと無いけど。」
「え?」
日夜が急に立ち止まった。
あれ?
「・・・なんか変な事言ったか?」
なぜか知らないが、日夜は目を見開いていた。
何か変な事を言ってしまったんだろうか。
自慢じゃないが俺は女心とやらが全く分からない。
高校は工業高だったし、専門学校にも女子は少なかった。
「お〜い。」
手を顔の前でひらひらと振ってみる。
・・・数回振った後に反応した。
「は、はいっ。」
「何かしたのか?」
本当に疑問に思ったのでそう聞いてみた。
「いえ、何でもありません。」
「ん〜?」
俺は首を傾げるだけだった。

日夜はどうやら例のものを買いに行ったらしい。俺は行くわけにも行かないので、店から少し離れたベンチで休憩中。
日陰になってるとはいえ、暑い。
「あ〜しかし暑いなぁ〜。体が融けそうだ。」
「ああ!融けるがいい。」
声を聞いた時点でわかってしまった。
何で俺はいつも買い物をしてるとこいつに会ってしまうのだろうか。
「いい天気だよなぁ。」
俺はアホの声を無視して続けた。
「悪い天気だよなぁ。」
「・・・」
「・・・」
「何で信弘がここにいるんだ。」
「俺は買い物だぞ。新作のゲームが手に入ったんでね。」
「暇人め。」
まあ、俺も人の事を言えなかったりするわけだが・・・。
「英は何しに来てんだ?」
「俺か?・・・・・・・・・買い物だ。」
「にしては、荷物が無いようだが。」
「気にしなくていい。」
「気になる。」
このまま行くと、信弘とコントになりそうだったので、俺が折れて話を終わらせた。
こいつとのコントぐせは本当に激しい。
見たくも無い信弘の顔を見ると、妙にニヤついている。
・・・いつもの顔だ。
「ちょっくら失礼。」
信弘はそういうとどかっと俺の隣に腰をおろした。
「大の男が二人ベンチに座っているとは情けないねぇ〜。」
自分で座ってきててからに何を言う。
それに、俺は日夜と来てるんだぞ。
「お前のこれはどうしたんだ?」
小指を立ててみせる。
「あ〜いろいろとありましてなぁ。」
「お前に浮気癖があるのが原因だろうが。」
信弘は男の俺から見てもルックスがいい。俺とは比べ物にならないと思う。
そんな男の唯一の弱点が浮気性があること。
ったく、贅沢のしすぎだ。いろんな意味で。
「まあ、けっこうがくんときてる訳ですよ。精神的に。」
信弘はそう言った。
「俺は決めた女性からは動かないけどなぁ〜。・・・そこがお前との考え方の差か。」
「だろうなぁ。」
ベンチにこれ以上ないくらいにもたれかかる。
視線を泳がすと、結構いろいろなものがあることに気がついた。
のどかとは程遠いな〜と思ってしまう。
俺のうちの近くなんか、コンビニすらない。
日夜が入っていった店に目をやると、ちょうど日夜が出てくるところだった。
こっちを確認すると少し小走り目に走りよってきた。
「お待ちになりましたか?」
右手には中くらいの紙袋が握られている。
あの中には・・・・・・考えないでおこう。
「待ってないよ。信弘も来たし。」
日夜は俺が言うと目を俺の隣に移した。
「信弘さん、こんにちわ。」
日夜はぺこりとお辞儀をした。
「あ、ああ・・・」
信弘はなんか困惑したような表情をしている。
突然知らない人から話し掛けられたような・・・そんな感じだ。
「なあ、誰?」
「はぁ?日夜だよ。」
「なにっ!マジですか?」
「嘘言ってどうする。」
信弘はなんというか、興奮していた。
「メイド服もそそられるものがあるが、私服も結構いいんじゃん。」
「だろ?」
「持ち帰りOK?」
「ダメだ。お前が十億よこすと言ってもやらんからな。」
日夜を他人にやるつもりは無い。
たとえ大金をもらったとしても。
「なあなあ、日夜ちゃん。」
信弘はベンチを立って日夜の隣に立ち、そして日夜の耳に顔を近づけた。
「英の奴、日夜ちゃんに惚れてるからな、食われないように注意しろよ。」
「はい?」
「おいっ!」
俺は信弘を怒鳴った。手がわなわなと震える。
なんて事を言うんだ。せっかく日夜との仲がよくなってきたと言うのに、壊すような事を言うな。
「なあなあ信弘・・・ちょっとこい。」
俺はベンチから立って、冷静を装って手をチョイチョイと動かし信弘を呼ぶ。
「おっと、その手には乗らんぞ、・・・でわさらばっ。」
信弘は風の如く走り去った。人の波に隠れてもう背中が見えない。
腹殴ろうとしてたのばれたか。
それより、日夜にどんな顔を見せればいいんだろうか。
自分だけ調子に乗っていて、相手が気にもとめていない事は多い。
それに自分が行動を起した後に残るのは無念、喪失、落胆、後悔など、ろくな事が無い。
「あの、ご主人様・・・私、嬉しいです。」
「あ、ああ。」
俺は頭がスパークして日夜が何を言っているのか分からなかった。


商店街にある本屋に入った。
スペースは狭いが、充実さではここ一帯で一番だ。
「何か買うもの決まったら、持ってきてくれ、会計するから。」
「はい。分かりました。」
日夜が棚の列に消えた後、俺も行動を開始した。
といっても、大して欲しいものは無いんだけど・・・。
車の本でも見てみますかね。
本がある列を見つけて、雑誌を一冊とってぱらぱらとめくってみる。
さすがに、最近の車は形がいいし、エンジンがすごいし、値段もすごい。
・・・これいいんじゃないの。値段は三百万ちょいか。
無理ではないけど、まだ現役の車があるしな〜。
あ、日夜って車の免許持ってるのかな?
持ってるんだったら、スポーツカーじゃない車が合った方がいいよな。
なんといったって、俺の車にはABSとかエアバックとかついてない。
・・・・・・よくよく考えるとあぶないぞ。
軽もいいが、もう少し余裕を持たせて、リッタークラスの車がいいな。
う〜む。

・・・・・・なんかしらないうちに本に集中してしまっていた。
これを買おう。
さて、日夜はどうしたかな。
商品棚を二つはさんだところに日夜はいた。
両手に二冊の本を持って見比べている。
二冊とも結構ぶ厚い。
日夜の行動を見ていると、どっちか悩んでる感じだ。
俺は別に盗み見する趣味は無いので、素直に声を掛けた。
「決まったか?」
「あ、ご主人様。・・・いえ、まだ決まってません。」
「そうか・・・ん?結構有名な本じゃないか。」
日夜が持ってたのは昔かなりのヒットをした本だ。
ページ数もかなりあったような気がする。
「これでいいのか?」
俺はそう言って、日夜の手から、二冊の本をとった。
「そんな、ご迷惑をかけるような事は・・・」
「ご迷惑って・・・いつも迷惑かけてるのは俺なんだから気にするなって。」
本当にそうだ。俺は結構家の中の仕事は日夜にまかせっきりだ。
たぶん、体力的にも結構辛いはずだ。
男の俺なら体力が続くかもしれないが、日夜は女の子だし、少なくとも俺よりは体力が無いだろう。
「じゃあ、この二冊な。」
「あ、ありがとうございます。」
日夜は丁寧にも頭を下げた。
感謝されるような事したかな?
なんか、俺が日夜に感謝をしなければならないような気がするけど。
日夜の顔をちらっとみると、少し顔が綻んでいたような気がした。

本屋を出た後に、スーパーマーケットに寄って食材を買った。
日夜の食材の選び方は凄かった。なんというか、目の色が違っていた。
あの目に射止められたら、たぶん行動が止まるであろう。
その後に、雑貨屋に行って洗濯バサミやハンガー、電池などを買った。
100円ショップでも買えるようなものだが、俺は100円ショップが嫌いだ。
まあ、訳はいろいろとある。・・・あまり記憶を呼び戻したくないな。
結局買い物で車の後部座席がいっぱいになってしまった。
「今日はありがとうございました。」
家につき、玄関に入ると日夜はそう言ってきた。
「たいした事じゃないだろ。気にすること無いって。
俺はもっと感謝したいぐらいなんだからさ。」
そう言うと日夜は『はい』と言った。
「まあ、着替えてきなよ。荷物は降ろしとくからさ。」
「すみません。」
「謝るなって。」
頭を下げている日夜にそう言って、玄関を出た。
車にある荷物はと言うと、・・・重かった。


そういえば明日は会社なんだよな〜。すっかり忘れてた。
自室でイスに座りながら、そんな当たり前な事を考えてみる。
今日は日夜と買い物に行った。
いろいろなところを回ったりしたが、
出かける事で、今まで見えなかった日夜が見えてきた。
日夜は結構表情が豊かで行動性に富んでる。
それが分かった。
いままで、日夜がどうやって暮らしてきたか知らないが、たぶん自分を押し殺すように
暮らしてきたに違いない。
でも、俺はそんなことは間違いだと思う。
メイドさんだからと言って、束縛される必要は何一つ無い。
たしかに、男は従順な女の子が好きだ、というのはあると思うけど。
もっと、気を楽にしてすごしてもらいたいよな。といつもいつも思う。


俺は日夜にこの部屋の掃除は頼んでない。
せめて自分の周りぐらいは自分で片付けたいし。少しでも日夜の負担を少なくしたいと思う。
でも、俺には仕事があるし自分でやることには限界がある。
言っておくが、別にベットの下にある本を見られるのが怖いから掃除をさせないという事は無い・・・はず。
それに、ベットの下に秘蔵の本があるというのは高校時代の話で、今はそんなものは一つも無い。
それに日夜がきた次の日に危ないのは全部捨ててしまった。
・・・まあ、そんな話はいいとして、そろそろ夕食のはずだ。
日夜に呼ばれる前に下に行くか。
俺は電気を消して部屋を出た。


リビングに入ると、日夜がキッチンでせわしなく動いているのが見えた。
大変そうだが、忙しく働いてる日夜は可愛かった。
「何か手伝うか?」
どうも、何か自分でもしたかったので聞いてみた。
まあ、一応一人暮らし期間が長かったから、ある程度の包丁さばきは出来る。
情けないようなそうじゃないような微妙な感じだ。
「いえ、ご主人様は休んでいてください。」
「残念。・・・で、今日の夕食はなんだ?」
「今日はですね・・・」


日夜が作る料理はファミレスで食べるよりとても美味い。
今まで自分が食べてきた物は一体なんだったんだ?と本当に思ってしまう。
「皿ぐらい俺が洗うよ。」
皿を運び終わった日夜にそう言った。
なんとなく気分で何かを手伝いたくなった。
俺の気分と言うのは結構変動が激しくて、じぶんでもコントロールが出来ないから難しい。
今日は人の手伝いをしたい気分だ。
「ご主人様にそのような事は・・・」
日夜は少し顔をしかめてこっちを見ている。
「いいだろ。俺だって一人暮らしの期間長いんだからさ。皿割ったりなんかしないよ。」
「は、はぁ。」
日夜はしぶしぶ承ってくれたようだ。
「まあ、テレビでも見ててよ。」
キッチンから出てきた日夜にそう言う。


・・・久しぶりにキッチンに入ると、俺が使っていた時とは違って、
『女らしさ』というものが感じ取れた。
皿を手に取りながら日夜がいるほうを見ると、日夜はBSを見ていた。
どうやら、ガーデニングの事をやっているらしい。
俺は皿を洗うのに集中して、枚数を稼ぐ。
手がかなり鈍ってる事がわかった。
指先が思った通りに動かない。
<かちゃかちゃ>
響く音がなんとも心地よい。
と同時に、結構の肉体労働だ。という事も思い出した。
日夜は毎日これをやってくれているんだから、感謝だよな。


・・・・・・皿洗いが終わりに近づいても、日夜はまだテレビを見ていた。
まあ、30分番組だしなぁ。
熱心に見ているので、俺はキッチンから、日夜に話し掛けてみた。
「日夜は、そんなのが好きなのか?」
テレビには、草葉の手入れの仕方が映っている。
「は、はい。」
「どんなところが?」
「見ていて綺麗です。」
ガーデニングが綺麗なのは、十分分かるが、大変そうだ。
自分の家の庭には花が無い。
庭の端にコスモスとか朝顔は植えてあるけど、
人に見せられるようなものは全く無い。
日夜はソファーに座って、俺には背中を向けている。
かなり、熱中してるな。
「ふ〜ん。なるほどね。」
「はい。」
「日夜の趣味がまた一つ分かったかな。」
「あっ。」
「まあ、日夜がずっとここにいるって言うんだったら、やってもいいけど。」
「えっ!?・・・・・・私は、ずっとここにいてもいいのですか?」
立ち上がって、こっちを見ている日夜の顔には、いろいろな表情が出ていた。
「・・・」
「出て行けとでも言うと思ったのか?」
「い、いえ・・・そんなことは・・・」
「昼間も言ったと思うけど、いくら金もらっても日夜は誰にもやらないし、離さないよ。」
キッパリと断言した。
「なぜ、ご主人様は私にやさしくするのですか?
主人ならば私を好きなように使えばいいのに・・・。」
日夜はそう言うと俯いた。
俺は手を拭いてからキッチンを出て、日夜の前に立った。
「・・・」
日夜は、目を伏せて俯いている。
「日夜はやさしくされるのは嫌なのか?」
「いえ、そんなことはありません。・・・嬉しいです。」
「なら、いいじゃないか。俺は日夜にやさしくしたい。俺は日夜と主従関係みたいなのを作りたくないんだよ。」
俯いている日夜からは何も読み取れない。
でも、たぶん困ってるんだろうな。と思った。
「なあ、俺の目を見てくれないか?」
「・・・」
日夜はそっと顔を俺に上げた。
俺は日夜の目を見て勇気を出し言った。
「俺は日夜のことが好きなんだ。」
「え!?・・・えっ!?」
日夜は目を丸くした。
「日夜が好きだ。一人の女性として・・・だから・・・」
「私は・・・」
日夜はまた俯いてしまった。
「答えなんか無くてもいい。ただ、言っておきたかった。」
俺は右手を日夜の肩に置いた。
<ビクッ>
日夜の体が一瞬震えた。
「ごめんな。俺って結構自分の事しか考えてない。」
「・・・」
「ごめん。」


その夜は眠れそうに無かったので、ビールを5本空けた。
いつもなら酔う量でも、酔いは全く回らなかった。


目覚めはもう最悪だ。
頭がくらくらするし、胃もおかしい。
二日酔いにかかったみたいだ。
二日酔いにかかるのは、かなり久しぶりのような気がする。
「いててててっ。」
首をひねろうとして、痛みが走った。
おまけに首まで痛い。寝違えたか?
「はぁ。」
昨日のことを思い出して溜息が出る。
俺の自作自演で日夜を悲しませてしまった。
何で俺は過ちを繰り返すのだろうか。
「起きるか。」
もぞもぞとベットから這い出る。
カーテンを開けると、恨めしいほどの快晴だ。
太陽がまぶしい。
<コンコン>
ドアが鳴った。多分日夜だろう。
「入っていいよ。」
「失礼します。」
ガチャッとドアが開きメイド服に身を包んだ日夜が入ってきた。
日夜はいつものとおりに着替えを置き、
「朝食は出来ていますので、着替えがすみましたらリビングにいらしてください。」
と言った。
「分かった。」
俺はそう言った。
なんであんな事があったのに日夜は普通に話せるのだろうか。
多分、俺を軽蔑しているに違いないのに。
日夜の行動をじっと見つめる。
ホントに繊細な動き方をする。
日夜の表情はあまり変わらないが、目にはいろいろな感情が出る。最近それがわかってきた。
「・・・」
「・・・」
ふと、日夜と目が合った。
二人とも行動が停止する。
体が動かない。目が動かない。まるで金縛りにあったみたいだ。
「・・・」
「・・・」
「あの・・・ご主人様?」
「え?あ、ああ、すまない。」
日夜に話し掛けられてやっと元に戻った。
「・・・では、失礼します。」
日夜は何事も無かったように、一礼をして部屋を出て行った。
目があった時、日夜の目には困惑の色が出ていた。
やはり戸惑っているんだろうか。


朝食を取った後、俺は家を出た。
朝食中はかなりギクシャクしていたと思う。
なんと言ったって、目の前に日夜がいるからだ。
目を合わせるどころか、まともに顔を見る事すら難しかった。
「頭痛いな〜。」
会社まで歩いて数分。
いつもなら楽な道のりも"二日酔い"プラス"精神的ダメージ"だとかなり辛い。
「はぁ。」
また溜息が出た。

「おうおはようさん。」
会社に着くと、真っ先に信弘に声を掛けられた。
にこにこと機嫌がよさそうに笑っている。
いつもより若干早い時間帯なので、他の人たちはいない。
なんか、疲れる。
「ああ。」
「どした?」
「なんでもない。」
「おい、おい、なんでもないようには見えないぜ。」
信弘が背後で何かを言っていたが、無視して自分の席に突っ伏して、窓の方を見る。
冷たく冷えた板が心地いい。
口から出るのは、
「はぁ。」
溜息だけ。
一人で自己嫌悪に陥っていると、信弘が隣の席に座った。
信弘のデスクは俺の左隣だ。そしてそのデスクは荒れに荒れている。
液晶モニタとキーボード、マウスを置くと余るスペースは10cm四方ぐらいか。
「日夜ちゃんと何かあったか。」
「・・・」
一発で図星をつかれてしまった。
しらばっくれるかとも考えたが、意味が無さそうなので止めた。
「・・・ああそうだよ。」
「ついに押し倒したか。」
「違うって。」
「分かってるって。で、日夜ちゃんに何をしたんだ?」
「・・・企業秘密だ。」
「お前の家は企業だったのか?」
「そうだ。」
いざこざの原因まで信弘に言う気にはなれない。
というか、疲れていて言いたくない。
「ついに告白したのか〜・・・結婚でもするのか?」
「・・・」
グサッときた。
なんで、信弘はこんな時だけピンポイントに物事を当てる事が出来るのだろうか。
ちょっと、その技術を伝授してもらいたい。
そうすれば、日夜の考えてる事もはっきり分かるのに。
・・・でも、人の考えを読んだところで、いい事は全く無いよな。
「まあ、お前と日夜ちゃんなら似合ってると思うけどな。」
とどめの一撃だ。
そんな事言われたら、俺はどうやって自分を抑えればいいんだろうか。
我慢していた日夜への想いが爆発してしまう。
昨日、一晩中考えていたんだが、やっぱり俺は日夜が好きみたいだった。
「まあ、そんなときは俺がクラッカーを100個ぐらい鳴らしてやるよ。」
信弘の一言に、俺はもう吹っ切れた。
黙っていたって、意味が無い。
それに、誰でもいいから、話を聞いてもらいたかった。
「昨日な、日夜に『好きだ』ってストレートに言ったら、見事に固まられてしまってな。どうすればいいのか分からん。」
「ほほう。」
俺は今まで、窓の方を向いていた顔を信弘側に向けた。
「ブラックコーヒー奢ってくれないか?二日酔いで頭がだるい。」
「はいよ〜。」
断られると思ったが、案外素直にいった。

三分後、信弘が二人分のカップを持って戻ってきた。
ロビーの自販機で買ってきたんだろう。
「ほい。ブラックな。」
「あ〜悪い、悪い。」
一言感謝の言葉を言ってから口をつける。
「治夫はまだ来ないのか?」
いつもならもう来てるような気がする治夫がまだ来ていないので聞いてみた。
「今日あいつ有給とってたぞ。なんか・・・あれに行くって言ってたな。」
「あれ?」
「あれだよ。あれ・・・えっとなんだっけ・・・あ、そうそう温泉に行くって言ってたぞ。」
「温泉〜?」
「らしいな。」
信弘はそう言って、イスの背もたれに寄りかかった。
ぎしっとイスが鳴る。
「温泉とはずいぶん豪華だな。・・・俺も行きたいよ。」
「日夜ちゃんとか?」
「・・・・・・ああ。」
「ずいぶんと惚れてるな。」
「・・・」
俺は黙った。
ただ、それが肯定を示している事を、信弘はわかっているはずだろう。
「しかし、日夜の作ったコーヒーは美味かったなぁ。」
コーヒーをさらに一口飲んでそうつぶやく。
今思い返してみると、日夜のコーヒーは本当に美味しかった。
「・・・何しけた事言ってるんだよ。これからも飲めるだろ。」
信弘が少しおどけた様子で言った。
でも、これからも飲めるかどうか不安でたまらない。
「だといいけどな。」
湯気が立っているコーヒーを見つめて俺はそう言った。


「早く帰ってやれよ〜。」
信弘はそう言って、街の雑踏の中にまぎれこんだ。
多分、これから街の中をうろつくに違いない。
俺の家は郊外にあるので、家と人が少ない。
それに比べて、会社の周りは結構"街"って感じだ。
「じゃあ、俺も帰りますか。」
ちょっと気が重いが。と心の中で付け足しておいた。
二日酔いはすっかり昼のうちに治ったが、今度は別の痛みが頭の中を貫く。
日夜との事だ。
最近、日夜のことしか考えられなくなってきた。
俺は洗脳されてしまったのか?
「『気分はこの夜道のように暗く全く先が見えない。』ってか。」
まあ、そんな感じだった。
シリアスな気分で歩いていると、今まで聞こえていなかった音が聞こえてくる。
犬の遠吠え、虫の鳴き声、靴がコンクリートを蹴る音、等など。
どれもこれもが悲しそうに聞こえる。
そんな感じで歩いていると、灯火が見えてきた。
カーテンの脇から光が漏れている。
毎日見慣れている、俺の家だ。いや"俺たちの"か。


外開きのドアを開けると、パタパタと日夜がやって来た。
「お帰りなさいませ。」
「ああ、ただいま。」
「あっ。」
気がつくと、日夜を思い切り抱きしめていた。
もう自分を抑える事が出来なかった。
日夜は・・・凄く温かい。
「ご主人様?」
「・・・離したくない。」
さらに、腕に力を入れる。
なぜか、本当に日夜がどこにかに行ってしまうような気がしたから。
「・・・」
「離したくない。」
俺はうわ言のようにつぶやいていた。
「わ、私も・・・ご主人様から・・・・・・離れたくありません。」
すると日夜は俺の背中に手を回してきた。
その言葉を聞いたとき、じわっと涙が溢れてきた。
俺ってこんなにも涙もろかったのかな。
「本当?」
「はい・・・。」
俺は日夜から少し体を離した。少し大きめの目を見つめる。
そして言った。
「俺は日夜が好きだ。だから、ずっと俺と一緒にいてくれないか。」
「はい。・・・私も、ご主人様が好きです。」
もう一度日夜を抱きしめる。
日夜の暖かさが俺の体だけじゃなくて心も癒してくれるように感じた。
そして、俺はいつも気になっていた事を日夜に話した。
「なあ、『ご主人様』じゃなくて『英』って呼んでくれないかな?」
「・・・英・・・さん・・・」
目から溢れ出した雫が頬を滴り落ちた。
「・・・っ!」
「泣いてらっしゃるのですか?」
「・・・いや、なんでもない・・・」
両手を日夜から離して、目じりを手で拭う。
拭い終わった手はじっとりと濡れていた。
・・・もうだめだった。
日夜への想いが爆発した。・・・止める事が出来ない。
ゆっくりと日夜の顎を持ち上げ、
その小さな唇と唇を重ねた。
「・・・」
「・・・」
体が震え上がりそうになる。
感じた事の無い感触、流れる電流。
これで、日夜とはなれなくてすむと思うとすごくほっとした。
・・・どのぐらいの時間がたったのかわからないが、どちらともなく離れる。
日夜の顔を見ると、前は月のようだった表情が、少し、嬉しそうだった。
その表情を見た俺は、顔が綻ぶのを止める事が出来なかった。





あれから一年もたった。月日が過ぎるのは早いものだ。
この一年間というもの、日夜と喧嘩したり、仲直りして笑ったり、いろいろ旅行に行ったりと
いろいろあった。
でも俺は今そんなことを悠長に考えてられるほど余裕は無い。
俺は結婚式場にいる。
体がガチガチだ。
信弘のやつは、『気楽にいけよ〜』なんて言っていたが、
気楽になんかいけるわけが無い。
俺の横には、日夜がヴェールに包まれて立っている。
表情を見る事は出来ない。
「〜〜〜〜・・・〜〜〜〜〜〜」
神父がなにかを長々と喋っているが、頭には全く入ってこない。
日本語ではないみたいに聞こえる。
「それでは、誓いの口付けを・・・」
それだけが認識できた。
もう、心臓が張り裂けそうだ。
ばくんばくん音を出している。
真っ白いヴェールを手にとり、持ち上げた。
今まで見えなかった顔が見える。
日夜は、とても嬉しそうな表情をしていた。
「日夜」
「英・・・さん」

そして、俺と日夜は誓いの口付けを交わした。






〜Fin〜




2003/10/23

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